おれは天国の住人なのか、それとも
地獄に落ちる身なのか、わからぬ。
草の上の盃と花の乙女の長琴さえあれば、
この現物と引き替えに天国は君にやるよ。

「ドゥシャ殿、おぬしが背負っていたそれはカマンチェでは? ――弾けるのか?」
 宴もたけなわ。みな程よく酒がまわり、気持ちがおおらかになってきていたころ、唐突にカーラーンがドゥシャに尋ねた。カーラーンの読みどおり、ドゥシャのかたわらにおいてあったそれは、カマンチェだった。昼間、劇場に取りに行っていたものだ。
「まあ、……弾けないことは。しかし、余興でたまにやる程度で」
「おっ、それは是非とも。白皙の一瑶の歌声とはいかに」
 サームもそれに乗り、
「いいですなあ。今宵の肴にぴったりではないか」
キシュワード、ダリューンも頷き、
「どれひとつ、おぬしへの想いに身を焦がす俺のために、一曲」
クバードが最後の一押しをした。その物言いにシャプールは文句ありげに眉をひそめたが、押し込むように酒を呷って、ひとこと。
「うむ。おれも是非聴いてみたい」
 これには、乗り気ではないようすだったドゥシャも折れる他なかった。
「わかりました……。では、」
 カマンチェを手に、別の座敷のクッションの上に胡坐をかいて座る。店主も、今まで騒いでいた他の客も、にわかに静まり返り彼女の歌声に耳を澄ませた。
 カマンチェの弓が、絃の上を滑り出す。

『無く以外にすることなんて何もない、
 あなたがいないなんて
 まるで陽が沈んで光をうしなった夜空のよう

 あなたがそう望むなら 王の中の王よ
 このまま悲しみと苦しみのなかでもがき続けましょうか
 それでもかまわない あなたがくれた痛みだと思えば
 
 お願いだから扉を開けて 夜の空の下
あなたはどこにいるの どこに座っているの

私の胸に 恋だけを置き去りにして
恋人はどこにいるのだろう 私はここにいるのに

一体いつまで待てば私は私たちになれるのだろう
きっといつまで待っても私たちにはなれないのだろう

私が私を捨てない限りは
私があなたをあなた と呼ぶ限りは
――』

X 朝靄にとけていくもの


 朝靄でけむる早朝のエクバターナは、まるでひとりきりになってしまったのかと思うほどに、静かだった。寝台の上におきあがり、ぼやけた頭を振ってドゥシャは、親指で己の唇をなぞる。
――昨晩の記憶。それは、酒が残った頭にも鮮明に焼き付いていた。


『……ドゥシャ。おぬしは、まるで難攻不落の城のようだな』
宴も終盤に差し掛かったころ。クバードは、いきなりドゥシャの唇を奪った。ドゥシャは驚きのあまり、一瞬抵抗することをわすれていた――いろんな酒のにおいと、男らしいムスクのかおり。それらが鼻をついて、脳みそを駆け巡る。酔いがますます回ったような気がして、くらくらした。一瞬どこかに飛んでいた意識を取り戻し、ドゥシャは必死に肩を押し返したが、後頭部と腰に手が回されていては逃げられるはずもない。
つまり――公衆の面前で、熱烈な――ディープなキスを交わしてしまったというわけである。恋人でもない男と。
『な、な、なん、なにをやっている貴様、クバード! おい!』
 怒り心頭のシャプールの声が聞こえる。ああ、嫌だな彼に見られるのは。どうしてだろう。そんなことを思っているうちにも、クバードはドゥシャの口内を荒らしまわる。呼吸の音が大げさに漏れてしまうのが嫌だった。シャプールが大声でクバードを詰る以外、周りは茫然とし、一言も発しなかった。
やがてクバードの唇は離れていき、唇のまわりをぺろりと舐めた後、彼はにやりと笑った。息も絶え絶えのドゥシャはそのまま体を支えきれず、クバードの方へしな垂れかかた。
『どうだ? ドゥシャ。力が入らぬか。いままでのどんな男より“上手い”だろう』
 つう、と背筋を撫で上げられる。その瞬間、ドゥシャはするりとクバードの逞しい胸の中から抜け出した。
『クバード、きさま!』
『……か、帰ります。わたし……!』
『ちょ、お、おい!』
『なっ、ドゥシャ殿、ひとりでは危険だっ』
 引き留める声も聞かず、真っ赤な顔をヴェールで隠すように、足早に店を出ていったのだった。


 ――思い出しただけでも、恥ずかしい。湧いてくるのは、クバードへの怒りと、誰に対してか分からない釈然としない想い。……男性との口づけは、初めてだったのに。今まで踊りや芸をもとめるのに必死で、そういうことには一切目を向けてこなかった。そういう誘いも、すべて断ってきた。踊り子として気高くありたいという、矜持というものがあったから。でも……。
「もう私も、そういう年か」
 ドゥシャはいま22歳だ。そんな年齢になっていままで恋人ひとり作ったことがない、求めたこともない。しかしすでに、結婚だってしていても可笑しくない年齢に達しているのだ。
 ふと思い浮かんだのは、昨日顔を真っ赤にしてクバードを止めてくれた彼。クバードとの口づけを彼に見られるのはなんとなく嫌だった。まだ3度ほどしか顔を合わせたことしかないのに、そうしてこうも彼のことが気になってしまうのだろう。彼の表情いちいちが目に焼き付くのだろう?
 ――そこまで思い至って、ドゥシャは頭を振った。そして、立ち上がって部屋の窓を開け放った。よどんだ空気が朝風に浚われていくのと一緒に、頭の中もすっきりと洗われる。朝日が目にまぶしく、ドゥシャは目を細めた。大きく背伸びをして、思いっきり深呼吸。
「まだ、わからないわ」


 「――ドゥシャ殿はご在宅か」
 静かな昼下がり。昼食を取り終え、ドゥシャは部屋で独りタールを爪弾いていた。来月の貴族の結婚式に呼ばれ、余興としてそこで歌と踊りを披露することになったからだ。そんなときだった、突然の訪問者が家のドアを叩いたのは。
「はい、おりますよ。……え、 だ、ダリューンさま……?!」
 そう、ドアを開けた向こうにいたのは、鋭い目つきの年若い万騎長――ダリューンだった。彼は、驚いた様子のドゥシャに申し訳なさそうに眉を下げた。
「急に申し訳ない。しかしおれだけではないのだ、――シャプール殿も……」
そんなダリューンの後ろから現れたのは、これまた万騎長シャプール。その表情はいつになく険しい。ドゥシャはシャプールがいるのを認めるとなんだかドキドキしてしまって、一瞬目を泳がせたが、しかし、とにもかくにも、「何のお構いもできませんが」と二人を家に上げ、座らせ、市場で買い求めた菓子をだし、チャイを淹れた。
「――ええと、それで。どのようなご用件で……?」
「なに、昨晩の忘れ物だ。……ほら、」
 そういってダリューンがドゥシャによこしたのは、カマンチェ。昨晩の出来事があまりに衝撃的すぎて、その存在はすっかり頭の中から抜け落ちていた。
「あっ、ああ! すっかり忘れておりました、ありがとうございます! わざわざご足労を……。しかし、なぜ私の家を知っておいでで?」
「劇場のものに訊いたのだ」
「そ、そうですか……それは二重にお手数をおかけしました。助かりました。仕事で使うものなので」
「なに、構わんよ。――ほら、シャプール殿。おぬしも」
 ――言いたいことがあって、わざわざ俺についてきたのでしょう?
 シャプールはさきほどからうんともすんとも言わない。しかし、なみなみならぬオーラを滲ませながら、じっとドゥシャを見ていた。ドゥシャもドゥシャでなんとなく目を逸らすことは憚られ、シャプールを見つめる。それが30秒ほど続いただろうか――いよいよ妙な雰囲気になってきたぞ、とダリューンが思っていたところ。シャプールはなぜかちょっと顔を赤らめながら目を逸らした。そんな様子にドゥシャもちょっと顔を上気させる。が、シャプールは改めてドゥシャの目を見て、
「すまなかった……!」
がばり、と頭を下げた。頭を下げすぎて、ごん、と机に額がぶつかる音が響く。
「えっ?!」
「昨晩はクバードがとんでもないことを……! あのような場でおなごに口づけるなど言語道断! あ奴に変わっておれが詫びる。 申し訳なかった」
「お、お待ちください、頭をお上げくださいませ! なぜシャプール様が」
「筋を通すなら、あ奴が謝罪に来るのが一番なのだろうが、昨日の今日だ、なにをしでかすかわからん。それにダリューンではおぬしの所在が分からぬだろうと思って……そう、それだけだ」
 そういったきりシャプールは顔を赤らめ口をつぐんだ。なぜそこで赤面する必要があるのだ、とダリューンは思ったのだが、何も言わない。ドゥシャは困惑した表情でうろたえ、胸の前で両手を振った。
「わ、わたしはとくに、気にしておりませんので」
「……。……気にしておらぬだと?」
「は、はい。ですから何もシャプール様が謝る必要はありませんよ」
 ドゥシャは気を遣って言ったのだが――その言葉を聞き、グッとシャプールの眉間のしわが深くなった。
「若いおなごが、男どもの前で、恋人でもない男に口づけされて、気にしておらぬと?」
「おい、シャプール殿……!」
 シャプールは些か頭に血が上っているようで、ダリューンの諌める声も届かない。
「……ドゥシャ殿、そうなのか」
「そんな……」
ドゥシャは一瞬言いよどんだが、
「……気にしていないわけがないじゃないですか。だって、……初めてだったのですよ、あれ。ですが、あれはただの酒の勢いのお戯れだと……」
「なに。は……は、初めて……だと……? ――ますます許せぬではないかそれは! もう2,3発殴ってやらねばならぬようだな!」
 真っ赤な顔でそう言うと、シャプールは勢いよく立ち上がり、おれは失礼する、本当に邪魔をした、すまない。と早口で言って嵐のように去って行った。
 残された二人――ダリューンとドゥシャはしばらく茫然としていたが、やがてくすくすと笑いだす。
「シャプール殿はああ見えても初心なお方でな、……そういうところには厳しいのだ」
「ええ、……そのようですね。――本当に可愛いお方」
 ぽろっと、顔の赤いドゥシャの口から出た一言に、ダリューンはほう、と目を細めた。ドゥシャはニコニコとチャイを啜っている。シャプール殿にも春のきざしが……などと考えつつ、ダリューンも出された菓子を平らげ、おもむろに席を立った。
「では目的も果たせたことだし、おれも失礼する。邪魔したな、ドゥシャ殿」
「いえ。わざわざありがとうございました」


「私ったら、忘れ物が多すぎるわね」
 ダリューンが立ち去り――ドゥシャは、嵐が去ったような心地で、しかしちょっと名残惜しいような気もしながら、再びタールを手に取ったのであった。