人生はその日その夜を嘆きのうちに
すごすような人にはもったいない。
君の器が砕けて土に散らぬまえに、
君は器の酒のめよ、琴のしらべに!

「……ドゥシャ、さっきから随分と上機嫌だな」
「そう?」
 ドゥシャは、熱いチャイを啜りながら、にっこりとほほ笑んだ。舞台上の彼女とは違い、濃い化粧もおとし、着ている服もごく一般的なもの。印象は些かおとなしくなっていた。
「そうだよ。さっきから……シャプール様がいらしてからずっとニコニコしてる。怖かったんだぞ、あの方が声をかけてきたとき」
 そう言ったのは、さきほどシャプールをドゥシャのもとに案内した男。男は肩をすくめてから、なめらかな布に刺繍を施す作業を再開した。見た目に似合わず手先が器用な男で、ドゥシャの衣装の装飾はすべて彼が担っているのだ。鮮やかな赤の刺繍糸が、白い絹のうえに植物の文様を描き出していく。その手つきはよどみない。
「怖いなんて。とてもお優しい方よ」
「見初められたのか、王宮に呼ばれたときに? お前そういうの、全部突っぱねてたじゃないか。お前なら高貴な方のひとりやふたり、いやそれ以上、と楽士たちが言っていた。バハラーム様なんてお前にお熱どころの話じゃないだろ。……ふーん……なるほど。シャプール様ねえ」
「そんなんじゃない。忘れ物を届けに来てくださっただけよ」
 そして、それが何だか可愛くて、嬉しかっただけ……とドゥシャは思ったが口には出さなかった。指先で耳飾を転がしながら、鼻歌でも歌いだしそうな心地で、ドゥシャは最後のひとくちのチャイを呷った。
「……明日は何もないわよね?」
「もうしばらく公演はなし、だ。なんでも、楽士たちが新しい曲を作りたいらしくてな。お前はしばらくゆっくりしてたらいいさ」
「まあ、曲が出来上がらないうちに顔を出すわ。新しい音楽に合わせて、踊りも要るでしょ」
 そういってドゥシャは髪を後ろでまとめ、頭からヴェールをかぶる。作業をしていた男は顔を上げると、軽く首をひねって凝りをほぐし、ドゥシャを見た。
「帰るのか。……いい加減ここに住み込め」
「ううん、いいわ。案外、一人で暮らすのは楽しいし、気楽だもの。――じゃあね」
ひらりとてをふり、ドゥシャは部屋から出ていった。ばたん、としまったドアに、男は、盛大にため息をついた。
「……危ないって言ってるんだよ、俺は」

V 夜空星ぼしのあいだ


 劇場の外の空は、すこし夕方の色が見え隠れしていた。それでも街は賑やかで、絶えず人の波がうごめいている。ああ、これがよいのだ。ドゥシャは思いながら、何か夕飯の材料でも、と、市場に足を向けた。
 いちばんの繁盛時の昼は過ぎたとはいえ、いまだ市場は賑わっていた。香辛料の効いた肉が焼ける匂いは、ドゥシャの胃袋をこれでもかとくすぐった。今日の晩は、そうだ、あれにしようこれにしよう。頭の中で考えつつ、ドゥシャは食材を買い求めていく。身の詰まった果実や珍しい穀物、切らしていた香辛料。酒もひと瓶買った。ひとりきりの晩餐は、ドゥシャにとって生活の中のもっとも身近な楽しみなのだ――好きな料理を好きなだけ作って好きなだけ食べ、甘い果物なんかもつまみ、めずらしいナッツも試しに食べてみて、酒を飲む。だらしがない、と言われるだろうが、この上ない楽しみがそれなのだから仕方ない。
 少しばかり荷物は重くなってしまったが、それでも、久しぶりのひとりきりの晩餐を楽しみに、家路をたどった。空はもう紫紺がにじみ、ぽつぽつと白い星が輝いていた。


 「ハア、なんと……」
 情けない。
 シャプールは眉間の谷を一層深くさせながら、深いため息をついた。ドゥシャの姿が頭から離れないのである。使用人たちも、主人の並々ならぬ様子に困惑気味だった。
「おい、酒を」
 本当に、自分が情けない――そう思う。2度顔を合わせただけの彼女の姿を頭の中から追い出せない自分、そして気を紛らわすため酒に頼る自分が。そんな思いとは裏腹に、酒は進むのだ、ドゥシャと自分の悩みを肴に。
ドゥシャは、いわゆる――偶像のようなものだろう。ただの女ではなく。クバードは本気で口説き落そうとしていたようだが、彼女が誰かの女になるわけがない、という確信めいたものがシャプールにはあった。きっと彼女の背後にはパトロンがいる。……そのパトロンはきっと、彼女を求めるはずだ。そして、彼女は――
「……否、」
下世話な想像はやめよう、とシャプールは首を振った。そしてなんだかばかばかしくなった。間違いなくあだごとなのだ、彼女のことについて考えるのは。
酒を置き、窓の外に目をやる。傾いた夜空がそこにあった。深い色の空に、ちりちりと輝く星が浮かんでいる。新月の夜、その美しさは一層際立つ。その夜空を肴に、酒をもう一口、二口。――
気付けば、周りの家々の明かりも消え、星がさらに冴え冴えとしているのみだった。深酒しすぎたか、と立ち上がって、寝台に体を横たえる。ふかく息をすれば、いますぐにでも眠れそうな気がした。何故かひどく安心して、目を瞑る。
ゆるゆると、漣のように眠りがそこまで来ている。夢の中へと落ちそうになった瞬間、シャプールの頭によぎったのは、ドゥシャの焼き付くような鮮烈な翡翠の瞳だった。


タールは、細く儚げな音をたてた。それに合わせて歌う自分の声は、なんだかすこし、明るすぎるような気がした。
今夜は美しい星々がうつくしいから、真っ暗な部屋にろうそく一本明かりをともし、空にひらけた窓から空を見あげる。そうしているうち、なんだかただ見上げているだけなのが勿体ないような気分になって、タールを手にとったのだった。
「美しい王都の夜に。――」
 指先で絃をつま弾き歌うのは、幼いころどこかの市場で聞いた、懐かしいあの歌。切なげなその旋律は、成長した今でもドゥシャの心にふかく残っていた。誰かから譜を習ったわけではないけれど、繊細なタールによくにあう。
 ――ろろん、
 歌も終ろうかというとき、指先がふと動きを止めた。そしてタールを傍らの台に置き、
「ちがうのよ」
ドゥシャは窓の桟に手をかけ、呟いた。
「私が歌いたいのは、……ううん、きっと歌じゃないわ」
もうずいぶん傾いてしまった星をじっと見上げる。髪を耳にかけたとき、指先に感じるのは冷たい温度。赤い宝石の耳飾。
「そうね。踊りたいんだわ、わたしは……」
 耳飾をそっと外し、掌に載せてまじまじと眺めてみる。星明り程度では輝きもしないそれを、つと指先でなぞれば、昼間の出来事が自然と思いだされた。
 ――あんな、益荒男のような方だったけれど、随分かわいらしかった。わざわざ耳飾を返しに手向いてくださるなんて、なんて細やかなんだろう。
 なんだか居心地の悪そうな表情も、恥ずかしそうに眉をひそめたその表情も。なんだか、かわいかった。そして、わざわざ来てくれたことが何よりうれしかったのだ。また来てくださったらいいのに、なんて。ドゥシャは、なんだかおかしくてクスリと笑った。


 エクバターナの夜は、更けていく。美しい星空を、宮殿の向こうに吸い込みながら。