法官よ、マギイの酒にこれほど酔っても
おれの心はなおたしかだよ、君よりも。
君は人の血、おれは葡萄の血汐を吸う、
吸血の罪はどちらか、裁けよ。

 「どうしろというのだ……」
 宴がお開きになり、にわかに静けさを取り戻した王宮の廊下で、万騎長シャプールは、ちょっと頭を抱えていた。
 その手には、武人にはいささか不似合いな、繊細で美しい耳飾。それにはめ込まれている赤い宝石は、夜の静かな闇を吸い込んで、沈んだ色を呈していた。――これは、あの踊り子――ドゥシャのものだ。クバードが彼女から取り上げていたので、なんとなく奪い返したのはいいものの、返し忘れてはなんの意味もない。
 あいつが取り上げたのに、おれが返しにいかねばならんのか……とちょっと憤る気もしたが、クバードはドゥシャが退出した後「興がさめた」と宴を出ていったため、この耳飾は、シャプールがもっているほか無かった。それに今更返してこいというのも、あいつを喜ばせてしまうことになるだろう……それは癪だ。
「明日の朝、返しに行けばよいか……」
 彼女は今夜、王宮の一部屋を貸し与えられているはずだから。
 うっすら酒のにおいのする息を吐きながら、シャプールはなんとなく窓の外を見た。そこから見えるのは、星空と、すこしの街明かり。こんな耳飾よりよほど美しいではないか、と、手の中のそれを懐の中に入れ込んだ。
 窓の外の美しさに、シャプールはこの上なく贅沢な心地がして、少しだけ口角を上げた。

U 心臓と宝石


 翌朝。
「ドゥシャ様でございますか?……もう王宮を出られましたよ」
 ――シャプールは再び、頭を抱えた。ドゥシャは朝早く朝食をとり、「今日も舞台に立つから」と、さっさと王宮を去ったということらしい。早すぎではないか。いっそ苛立つような気持ちになりながら、シャプールは女官に礼を言い、その場を立ち去った。……返しに出向くしかないか。ためいきひとつ、朝の空気に溶けていった。
 本日、万騎長らは戦勝の報酬として、丸一日休暇を与えられている。シャプールには丸一日が潰せるような趣味もなければ溜まっている仕事もない。恋人もない。やることと言ったら鍛錬ぐらいで――だから、丁度よかった。そう思いながら、シャプールの足は城下の街に向かっていた。

 『パルスいちの踊り子、人呼んで白皙の一瑶! もうすぐ開演だよ!』
 昼近くの空に高く響いた客引きの声に、シャプールはほっとしながら足を止めた。戦に勝ったという興奮でいっそう賑やかな街の様子に辟易していたし、彼女がいる劇場がどこにあるか知らなかったのだ。
 大きくてきらびやかな劇場に、自分のような男――芸術なんぞには縁遠く、趣もたいして理解できない男が入っていいものか、と逡巡したが、人の波に押され、あれよあれよという間に安くない席代を払い、気付けば舞台に近い席にしっかりと座っていた。薄暗い劇場内の席は殆ど満員だった。
 ――しかし、ここでシャプールは気が付いた。彼女の踊りを見たとて、彼女に会えるとは限らんぞ、と。面会を求めてもそれが叶うかどうか。いや、万騎長という立場をつかえばあるいは――だが、それもそれであらぬ誤解を受けそうな。
 ぐるぐると考えを巡らせているうち、割れんばかりの拍手にシャプールは顔を上げた。目の前の舞台には彼女――ドゥシャが立っている。光に照らされて、彼女の肌はますます白い……それはまるで石膏像のように。なるほど、白皙か。シャプールは内心納得した。
 後ろに控える楽士たちが音楽を奏で始めると、彼女は踊り始めた。身に付けている装飾品がシャラシャラとなるのが聞こえてくる。シャプールは、その様子をぼんやりしながら、しかしジリジリとした緊張のようなものを感じながら、みていた。
 猫のようだ。それもとびきり優美で嫋やかな。彼女が回り、跳ねるたび、その黄金の髪がキラキラ輝き、衣装の紅も金の刺繍も踊るようで、目にまぶしい。しかしそのまぶしい色彩にも負けずに、翡翠の目は爛々とあざやかに、光っていた。
 ――昨晩もこんな踊りを?
 シャプールは昨晩の宴で彼女の踊りを見もしようとしなかったことを、すこし悔やんだ。
――彼女は間違いなく、『一瑶』なのだろう――こういうものの良さを理解できぬおれでも、なんとなくわかる。
ふ、と。彼の瞳と彼女の瞳が一瞬かち合った、……彼女が、融けるような目つきで、彼を見た――ような気がした。シャプールは気のせいだろうと思ったが、しかし、心臓は全身を巻き込みながら脈動している。
音楽なんか耳に入らない。彼女のひとつひとつの動作が、目つきが、シャプールのなかの何かを掻きまわしてゆく。それが我慢ならず、シャプールは己の拳をぎゅうと握りしめた。心を乱している自分がなんだか情けないような、そんな気もしたが――彼女の踊る姿を、鋭い目つきでひたすらに見ていたのだった。
わっ、と会場が湧き、踊り終えたドゥシャは微笑んで一礼。そして、割れんばかりの拍手のなか、彼女は舞台そでへ下がってゆく。
それを見届け、客は続々と席を立ち、踊りのあれこれを言い合いながら劇場を出てゆく。シャプールも席を立ちながら、ずいぶんと疲れた、そう思った。踊りを見るだけだったのに、無駄に神経をすり減らしてしまったような気がしたのである。
しかし、今日の目的はこれではない。懐の中にある、赤い宝石の耳飾を彼女に返さねばならぬのだ。踊り子に面会を願うなんてなんと思われよう。……彼女に懸想しているとでも思われようか?……俺は、彼女にこの耳飾を返す、それだけだというのに。
「――ちょっと、よいか」
近くに立っていた劇場の男に声をかければ、「は、はいっ」すこしおびえたような声が返ってきたので、シャプールは眉根を寄せる。
「さきほどの――ドゥシャ殿に、面会願えるか」
「は……。も、申し訳ありませんが、それは出来かねます」
「む。昨晩の忘れ物をシャプールが届けにきた……といえば彼女も解ろう。頼む」
 万騎長シャプールという名に加え、その目つきの悪さと威圧感。その男は舞台裏にすっ飛んで行った。しばらく経ち、その男が戻ってきて、「ご案内いたします」シャプールはその男の後ろについて暗幕の裏へと入っていく。
 舞台裏は案外粉っぽく、きらびやかな外装や舞台とは裏腹な感じがした。仕事を終えた楽士たちやそのほかの者たちにジロジロとみられ、シャプールは不愉快だった――しかしそんな文句は言っていられない。じぶんのような男が、こういうところにいるのが珍しいのだ、仕方あるまい。案内の男の背を追い、さらに奥の方へ入っていくと、ひとつのドアに突き当たった。
「ここです。ドゥシャはここにおりますので」
念を押すような男の視線にシャプールはしかめつらで頷き、三回ノックしたのち、そっとドアを開けた。
「失礼」
 ドゥシャは、背を向けてベルベットの張られた長椅子に座っていた。が、すらりと立ち上がってこちらを振り向いた。そしてそこにシャプールがいるのを認めると、ふ、と笑った。
「……驚きました。まさかシャプール様が来てくださるとは。踊りながらびっくりしてしまいました」
「おぬし、気付いていたのか」
「ええ、だってシャプール様、目立ちますから。もちろん、悪い意味じゃなく」
「そ、そうか……」
 ――じゃあ、さっき目があったような気がしたのも、気のせいではなかったのだな。シャプールはそう思い当り、顔に血が上るような感覚がしたが、つとめて冷静に言葉をかえす。
「とにかく、急に尋ねて申し訳ない。しかも、いささか強引に」
「とんでもない。――忘れ物、届けにきてくださったんでしょう。これの片割れ」
 ドゥシャが細い指先でつまみあげたのは、まさにシャプールの懐に入っているそれ。懐からごそごそと取り出すなんぞ、恰好がつかぬな。……そんなことを思っても、どうしようもない。シャプールは、取り出した耳飾をドゥシャに差し出した。
「ああ。傷が、ついてないと良いのだが」
 その耳飾を受け渡そうとしたとき、ふたりの指先が、一瞬触れ合った。ドゥシャはそれに驚いたように、パッと手を引く。その様子に、シャプールは複雑な気持ちでいたのだが、彼女が顔を赤くしているのを見て、自分まで顔に血が上ってしまった気がした。
「……すみません。……傷は大丈夫なようです。わざわざありがとうございます」
「構わぬ。昨晩のクバードの詫びも兼ねてのことだ」
 シャプールの言葉に、ドゥシャはまた、ふ、と笑いを零した。
「私、ああいう風に口説かれるのは苦手なので。昨日シャプール様が割って入ってくださって、助かったと思ったのです。クバード様には悪いですが」
「あいつも節操がない」
「そうなのですか?」
「ああ。おぬしのような美人は、特にな」
「あら。……お上手ね」
 ドゥシャは口元に手をやり、恥ずかしそうに笑う。それに合わせて、腕輪も笑うようにシャラリと音をたてた。シャプールは、己が言ったことを一瞬考え、そして思い出し、顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「……まあ、嘘は言っておらぬ」
 ドゥシャはまた、恥ずかしそうに笑った。