さあ、起きて、嘆くなよ君、行く世の悲しみを。
たのしみのうちに過ごそう、一瞬を。
世にたとえ信義というものがあろうとも、
君の番がいつ来るか分からぬぞ。

 初めて王都エクバターナの栄耀を目にしたときの大変な感動は、今でもわすれることができない。旅芸人の一座の、下っ端小娘だった私には、エクバターナはそれはもう夢の都のように見えたものだ。
 それから、十年余。私はこのエクバターナに住みつき、踊り子として生きてきた。自分には踊りと芸しかない、そう思い、ただひたすらに踊り続けた。街の広場で踊り、飲み屋で踊り、そうしているうちに、いつのまにか舞台の上で踊るようになって――パルスいちの踊り子、白皙の一瑶。人はわたしのことをそう呼ぶようになった。
 そして、いま。わたしは――王、王妃、王太子をはじめパルスのお偉方の前に立っている。ベールをかぶり、綺羅綺羅しい装飾品をみにつけて、静かに息をしながら――。

T その手、その貌


 舞台から降り、私を待っていたのは、武勇を誇る万騎長クバード様のお誘いだった。
「白皙の一瑶というのも、なるほど頷ける。この白くおどるような手で、どうだ、酌を」
肩をするりと撫でられたかと思えば、掬うように手を取られる。女性慣れしているな、と脳の奥で思いつつ、ええもちろんですとも。と酒の瓶をテーブルから取り上げた。
「光栄です。万騎士クバード様にお酌だなんて」
 透明な酒をあふれるほどなみなみと注げば、おっと、と声を上げクバード様はおかしそうに笑った。そして、酒を零さないようにしながら、盃に唇をよせた。はじめは啜るように――最後は盃に一滴も残すまい、というふうに勢いよく呷ってしまう。先ほどから結構な量を飲んでいるはずなのに、顔を一つも赤くせず平然としている。お強いのだな、と思いながらまた酒を注いだ。
「ところで……おぬし、出身は」
 5杯目を飲み乾したとき、クバード様が私に問う。ふむ、と私は手を膝に置き直し
「さあ……私にも分からないのです。マルヤムで旅芸人の一座に拾われたのですが、出身がマルヤムなのかは」
「目元の雰囲気が、パルスの人間よりすこし華やかなのでな」
 そうかしら。す、と自分で自分の目元に触れれば、腕輪が高い音をたてて滑り、うでの真ん中あたりで引っかかって止まった。――踊りのときでなければこの音も煩わしいものだ。何本も重ねてはめている腕輪を邪魔くさく思いながら、ゆっくり腕を下ろした。
「それに」
クバード様がなにか言い差したので、なにか、と私は首をかしげる。
「目も翡翠の玉のようだ、」
クバード様は、私の耳飾に触れた。ちり、と金属が触れ合う音が耳近くで鳴る。自然と顔が近づいてしまい、なんだか急に恥ずかしくなって、――ああ、きっと今の私の顔は赤いことだろう。現にクバード様は私の顔をのぞきこむと、おもしろそうに笑った。
「急に酔いでも回ってきたか?」
「一滴も飲んでおりません。クバード様があんまり褒めすぎるので、恥ずかしくなったんです」
「……可愛いことを言う」
慣れた手つきで私の耳飾を取り、それを私の目の前に示しながら、言う。
「しかし褒めすぎ、ってことはないだろう。おぬしは、こんなものがなくても十分美しい」
 だから今夜、どうだ、俺の部屋に。暗闇のなか踊るおぬしも、それはそれは美しかろう。
ちいさく、それでいて熱っぽいつぶやき。こんどこそ、酒に酔ったみたいにくらりとした。とにかく恥ずかくて、体中がカッカとする。こんな口説き文句、他の人に聞かれていたらどうだろう、でも、にぎやかな宴の中だ、きっと私にしか聞こえていまい――と思ったのだが。
「よくそんな歯の浮くような言葉がスルスルとでるものだな、クバード」
 聞いていた人がいたのだ。
瞬間、クバード様は心底不快そうな顔をし、鋭い舌打ちを飛ばす。そして、その声のもと――同じく万騎長であるシャプール様を振り返った。シャプール様も大変険しいお顔。くわえて仁王立ちしているので、そのオーラは半端なものではない。しかしシャプール様のそんな様子に臆することなく、クバード様は言う。
「これはこれはシャプール。おぬしこそ、その年になっても女の一人口説けやしない妬みか?」
「やかましいわ! おぬしの口説き文句は気色悪くて聞くに堪えん、鳥肌が立つ! それにおぬし、その女の名すら知らんだろうが」
 いいながらシャプール様は、クバード様が手にしていた私の耳飾を、ぱっと取り上げた。それに対してクバード様は、しまった、というように固まっている。――だって、まったくその通りなのだから。私は皆の前で紹介されたわけでもないし、名乗ったわけでもない。だから、クバード様は私の名も知らない。
 実際のところ、シャプール様の登場に、私はああ助かった、と思った。これ以上クバード様に口説かれるのは、耐えられない。砂糖を吐きそうだった。口説かれるのは苦手なのだ。それに、これ以上言い寄られて、うまくはぐらかせる気がしない。
 ――いいタイミングだ。もう、与えられた部屋に戻ろう。そう思い、腰を上げた。
「クバード様、……私、ドゥシャと申します。城下に住んでおりますゆえ、また機会があれば会えましょう。そのときまた挑戦してくださいませ」
「ドゥシャか。まあいい――女との機会はつくるものだからな。近いうちにまた」
 そう言い、クバード様は不敵な笑みをうかべて、私の言葉にうなずいた。
私は二人の万騎長に一礼し、王・王妃に退出の挨拶を済ませてから、宴を抜け出した。熱気がこもっていた宴とは裏腹に、廊下はひんやりと涼しい。火照った頬に冷たい空気が心地よく、すう、と息を吸った。
大きな王宮の窓から見えるエクバターナの街並みは、やはり、以前と変わらずすばらしい。ぼんやりとした街明かりがあつまるようすはまるで宝石箱のようで、こんな風景が毎日見られるのは、やっぱり王宮勤めの特権なのだ、と思う。
ふと、垂れてきた髪を耳にかける。……そこで気づく。
「ああ、……耳飾り」
 あんなことを言った手前、あの場に取りにもどるのは些か恥ずかしすぎる。もういいかあれは、とあきらめの気持ちをかかえ、私は与えられた王宮の一室に足を向けたのであった。