若き日の絵巻は早も閉じてしまった、
命の春はいつのまにか暮れてしまった。
青春という命の季節は、いつ来て
いつ去るともなしに、過ぎていってしまった。

「すまぬ、ドゥシャ。俺は……おぬしの思いには応えられぬ」
そのことばとともに、シャプールの手はドゥシャの肩から、するりと滑り落ちていった。
「すまない。……本当に、すまない」
ドゥシャの瞳をそれ以上見ておられず、シャプールは俯く。そのとき視界に入ったドゥシャの手は震えていた。2、3度手のひらを開いたり閉じたりしていたその手は、意を決したようにつよくつよく、握られる。
「シャプール様が……謝る必要は無いんです。私が、勝手に……勝手に恋して……」
それだけだから。
そのときシャプールは、ドゥシャの足元に落ちる、きらきらした雫を見た。それは、暮れかけた空の光をふくんで、くらむような小さな光をシャプールの目に焼き付け、そして地面に落ちてしみ込んでいく。
「ドゥシャ、」
シャプールは顔を上げられずにいた。ドゥシャはきっと泣いているだろうから。それを見て仕舞えば、ふらつきながら立っていた心が、簡単に倒れてしまうような気がした。
「シャプール様、私がいいというまで、顔をお上げにならないでくださいね。きっとひどい顔をしていると思うから」
ああ。返事を聞くと、ドゥシャは一回きゅっとシャプールの手を握って、彼に背を向けた。
「……いいですよ」
ーー涙声。顔を上げると、彼女の肩が震えているのが見えた。その震えは次第に大きくなって。最後には、しゃくりあげるようになった。手の甲で必死に涙を拭っているのが見える。
その涙を拭いたかった、でもそれは出来ない。彼女を拒絶したのは他ならぬ彼だから。
ドゥシャは、止まらない涙をもうあきらめ、もう一度だけ涙を拭ったあと空を見上げた。水色にオレンジを滲ませたような空には、いつだったか彼と見た太白はもうない。それでもその空は、憎らしいくらい美しかった。
「シャプールさま、みかづきですよ」
頼りなさげに、薄らぼんやり浮かぶ三日月。
「ああーーそうだな」
「シャプールさま。また、みにきてくださいますか?ーーなんて」
ーーきっと、来よう。以前シャプールはそう言えたのに。今でも、言おうと思えばーー。でも、やはり言わなかった。断ち切れない想いと後悔と自己嫌悪とに苛まれるに決まっているからだ。どうしてもおれは、臆病者だ。誰にも言い訳できないほどの。
「ばかですね、私ったら……」
ひんやりとした風が吹き抜けてゆく。ドゥシャの纏う白い紗のすそがひらひらした。ざり、と地面を踏む音。それがシャプールのものだったか、ドゥシャのものだったか。わからない。ーー二人の距離は離れていく。互いに振り返ることはない。そんなことはしない。
二人のーーエクバターナの空に浮かぶ三日月は、やはり薄らぼんやりとしていた。その空には太白はない。いつかドゥシャが真っ直ぐ指差した、その星は。

X 君が燈した夜はもう


わかっていたことだった。この想いが、シャプール様に届くわけがないことなんて。わかっていたのに、どうしてだろう。彼を追いかける足は止まらなくて、声は堪えきれなくて。涙も止まらなくて。自分勝手に想いを告げて、彼に気を使わせて謝らせて、私は一体何をしたんだろう。
苦しんだだけじゃない。やっぱり恋ってのは死にそうな思いでするもんなのね。自分は馬鹿だ。身の程を知れば良かったのだ。
ーーでも、確かに幸せであったのだ。彼と話すとき、彼の目を見るとき、笑顔を見れたとき、空を眺めたとき。彼に、恋していたとき。一瞬一瞬を思い出すたび、心の奥から滲み出たようなため息がこぼれ、そして涙。ドゥシャは服の胸元を強く掴んで、ベッドに沈み込んだ。涙がこめかみを伝ってシーツにしみていく。
「もう、おあいすることはないかもしれない」
果たして、この痛みは時間が癒してくれるのだろうか? 本当に?
「でもやっぱり、すきなんだわ」
未練がましい女。まだシャプールのことが好き。だからどうした。泣いてどうする? 何になる? 何にもならない。そんなことはわかっている、でも。
「すき」
まだ。
「すき、なのに」
思いは、深く根を張っている。この思いが死ぬまでどのくらいかかるのだろう。途方も無い時間が必要な気がした。
開け放った窓から、夜風がやさしく吹き込んでくる。それは、涙で火照ったドゥシャの顔を冷やした。明日も舞台に立たなければならない。だから今夜くらいは、悲観に浸らせてくれ。
「……好きなのに、」
エクバターナを駆ける夜風が、彼の元に、ドゥシャの小さなささやきを運んでいってくれればいいのに。眠っているであろう彼の耳に、私のかわりにそっと囁いてくれれば、それで十分だと。
ドゥシャは、悲観のうちで眠りに誘われながら、そう思った。

パルス暦319年、秋口のことだった。