Heralist


何日も雨が続いた後の晴れた空に、少なからず忍は浮かれてしまっていた。職場の窓から外を見てため息をついたのは一時間ほど前の話で、決して無視できない強さの雨の中、帰路を歩むのが現在。傘をさしていても一歩ずつ進める足が重く感じる程に濡れてしまっている。
くるり。雨粒の付いた傘を一回まわした。ビニールの傘は内側から雫が飛び散るのも確認できる。重さなんて無いようにも思えるその雫でも、勢いよく飛んでいくのを見ると少し体が軽くなった気がした。
くるり、くるり。
何も飾りのない普通のビニール傘とは違い黄色の水玉模様の入ったこの傘は、共に働く上司に渡されたものだ。普段は言葉も当たりもキツい上司だけれど、こういうところは意外と優しかったりもする。窓の外を物憂げに見ていた忍に気遣ったのか、はたまた別の理由かは不明だけれど、どちらにせよ帰り支度をしていた忍の前に差し出された傘は、上司からの特別なプレゼントのような気にさせられた。
――あの人、俺が誕生日って知ってたのかな。
だったらもう少し良いものをくれたっていいのに……とは思うものの、それはそれで恥ずかしい気もする。数百円であろう傘一本でさえ密かに喜んでしまうのだ。あの上司からごく稀に与えられる優しさがこんなにも嬉しく感じてしまうなんて、すっかり手懐けられてしまった気もしなくはない。
こういうの、飴と鞭っていうんだっけ?
ぼんやりと上司のサディスティックな笑顔を思い出していたら、ぴしゃり、嫌な音が足元から聞こえた。慌てて飛び退くけれど、時すでに遅し。靴の中がじっとりと湿っていく感覚と、跳ねた水により色の変わったズボンの裾を見て忍は眉を寄せた。

「ただいまー」
玄関の鍵は開いていた。同居人は今日は休みだと言っていたし、家の中にいるのだろう。畳んだ傘を外の窓枠にかけようとして、少し悩んでから玄関内にある靴箱にかけた。
ぽたり。流れ落ちた雫が玄関を濡らす。
「おー、おかえり」
一拍おいて、気の抜けるような低い声が奥から聞こえてきた。リビングへと目をやると、ひょっこり顔を覗かせているのは同居人の小笠原一之。あちらこちらにはねているボサボサ頭には、きっと今朝から櫛さえ通していないのだろう。
「タオル」
「自分で取れって」
「玄関濡れんだろカス」
忍の強い物言いに一之は笑い声を漏らした。
今日一日、定位置であるソファーに根を生やしていたのであろう。ごそごそと動く音が聞こえ再度視界に現れた彼の動作はやたらと気怠げで、動物番組で見るパンダやナマケモノを思い出させた。いや、奴らの方がまだ機敏な動きをしていたかもしれない。
はい、と手渡されたタオルはふかふかで手触りの良い忍専用のタオルだ。顔を埋めると清潔感のある嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りが鼻をくすぐる。
「晴れてたのになぁ」
雨粒を払う忍の姿をぼんやりと眺めている一之がそう口にした。言葉足らずではあるものの、言いたいことはわかる。
「七夕の夜ってなんか晴れねぇよな」
「そうだっけ?」
忍の荷物を受け取り、大口を開けて欠伸をしながらリビングへと戻って行く同居人は、はたして忍の誕生日を覚えているのだろうか。覚えていなかったら後日、何かしら高いものでも買わせよう。結んだ口はへの字のまま、濡れた靴下を手に風呂場へと直行した。

「忍って七夕生まれか」
何もせずとも汗の滲むこの季節、ドライヤーを使うのは嫌だけれど、髪を濡れたままにするのは論外。やっとの思いで髪を乾かし、火照った顔を冷ますべく扇風機の前を陣取っていると、何の脈絡もなく一之がそう言った。
気付いてしまったか、なんて心の中で舌打ちをする。
ちらり。目を向けると、一之はぼんやりと賑やかな笑い声の響くバラエティ番組を見ていた。
「なんかいいなー」
相変わらず、頭を使っていなさそうな言葉だ。
「毎年雨だけどな」
「あー……そういや雨だよなぁ」
お前さっきはそうだっけ? とか言ってただろ、という言葉は口に出すのも面倒臭い。どうせ一之の事だ。去年までの今日は、七夕ではなく忍の誕生日として記憶していたから、七夕の天候を聞かれてもピンとこなかったのだろう。
冷静にそう考えて、なんとなく恥ずかしくなった。熱い顔を再度扇風機へと向け、無意味に声を出す。くるくると回る羽に切られる音。なんだか気分が良い。
「なんで七夕って雨多いんだろな」
「梅雨の時期だからっしょ」
「おお、忍頭良いな」
「お前よりは頭良い自信あるわ」
それではまた来週。
何をやっていたかも記憶に残っていない番組が終了した。
ぐるり。テレビの前に座っている一之の体がこちらを向く。
「ケーキ、作ってたんだけど」
甘い物が好きな彼は時々、女のようにケーキやらお菓子やらを作る。最近のブームはプリンだったはずだ。基本的に味は悪くない。
他人の手作り料理は一切口に入れない忍も、長年の付き合いである一之のものであったら抵抗なく食す事ができる。――彼でなかったら同居することさえ困難だろう。
「何ケーキ?」
「チーズ」
「タルトのやつ?」
「そー、タルトのやつ」
「マジでやったー! 俺タルトのやつ大好きなんだよね」
知ってる。
ケーキを切り分けるべくキッチンへと向かう一之。彼が残した言葉に、思わず頬が緩んだ。


天気と気分は変わりやすい



(あれっ、雨やんでね?)
(マジで!?)



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