雨が続く梅雨の季節。
昼過ぎに目を覚ますと、太陽はこれでもかというほど輝いていた。それはそれで暑くて仕方がないのだが、せっかくの休日である。いつもより明るい景色になんだか気分が良くなった弘は、財布をポケットに入れて本屋まで歩いて来ていた。
――ぴちょん。
屋根から落ちた雫が跳ねる。目の前に広がっている景色はなんだ。絶え間なく空から降り注ぐ水は一体なんだ。滝だろうか。弘が知らないうちに街には滝が出現していたようだ。世界はこんなにも変化で満ち溢れているというのに、弘が傘を持っていないという事実は変化することはない。こんな事になるのならば、おとなしく家でゲームでもしていた方が良かったのかもしれない。
目当ての本は、しっかりと手に持っている袋の中にある。本屋に居た時間はせいぜい30分程度。30分で世界はここまで変わるのか。
(ついてねぇなぁ……)
ついてない日。前にもこんな事があったような気がする。確かあの日もこうやって雨が降って、それで――
「あ、やっぱり」
彼女と会ったのだ。
頭の中に浮かんだ姿にぴったりと合う、透き通った声が聞こえた。振り返れば本屋を背景にしたあの女生徒。よく遭遇するような気がしているが、実際は同じ学校内で生活しているのに彼女を見かける事は少ない。会った時の印象が強すぎるのだろうか。
彼女は制服ではなく長袖のTシャツと細いデニムの長ズボンを身に着けていた。胸元にいる妙に不細工な猫が弘を見つめる。同じクラスの女子達は、もっとカラフルで派手な私服を着ていた気がするのに、今目の前にいる彼女の服はお世辞にもオシャレとは言えない。もっと綺麗な服を着ればいいのに。たとえば、ひらひらとしたシンプルな白いワンピースなんてどうだろう。他の女子とは少し違う、透き通るような白い肌をしている彼女にはとてもよく似合いそうだ。なんて考えているとまた同じ声が弘を呼ぶ。
「また雨だねぇ」
「……さっきまで降ってなかったのにな」
「ね、でも今日は雨降るって言ってたから」
「えっ」
思わず隣に立った彼女に視線を向けると、彼女も驚いたのか、同じ言葉を零してこちらを見る。知らなかったの?と、彼女の目が語っている。
そういえば、今日は起きてから天気予報を見ていなかったし、本を眺める客は皆片手に傘を持っている。視線を落とすともちろん彼女の手にも傘があった。淡い水色に白い水玉模様の小さな袋にぴっちり入っているソレは、便利な折りたたみ式のものだろう。あんなに晴れていたのになんというフェイント。チクショウ、嵌めやがったな。
――天気予報を見なかった自分が悪いのだが。
「もしかしてまた傘ないの?」
「あー……うん」
目をそらしながら言う弘を見て、彼女はくすくすと笑った。
「傘、使っていいよ」
弘の前に水玉模様の傘が差しだされる。目を合わせると促すように彼女はまた笑う。
もしかするとこれは、もしかするかもしれない。一本しかない傘。降りやまない雨。同じ学校の男子と女子。この漫画のようなシチュエーションから続く事と言えば一つである。
――傘、俺が持つから入れてもらっていい?
この一言が重要だ。ドキドキと鼓動が早くなるのを感じながら、少し乾いた唇を開く。
「あ、」
「じゃあ、帰るね」
「えっ?……あ、ちょっと!」
手に乗せられた折りたたみ傘。煩いくらいに地面に叩きつけられる雨の中、彼女は何のためらいもなく進んでいく。
慌てて傘を開きながら呼び止める弘の声に、彼女は振り返って笑う。
「私、雨が好きだから」
雨の音が煩い。しっとりと濡れた亜麻色の髪が彼女の頬に張り付いている。ほんの数歩先だというのに妙に遠く感じる距離。大粒の雨が、弘に行くなと叫んでいるようだ。傘を開いて追いかけるという考えは無くなってしまった。少しずつ遠くなる彼女の後姿。何故だか夢を見ているような気分になる。
(風邪、ひいたりしないよな)
手の中にある開きかけの傘。
明日にでも返しに行くついでに様子を見よう、と考えたところで、彼女が何年何組に居るのか知らないことに気付いた。それどころか弘は彼女の名前だって聞いていない。誰か彼女の名前を呼んでいただろうか。誰かから彼女の話を聞いた事があっただろうか。雨が好きだという事以外、弘は何も知らない。
この水玉模様の傘を返すのはいつになるのだろう。それでもあまり焦らないのは、また偶然会えるような気がしているからだろう。とりあえず、次に会ったら、「ありがとう」と言わなければ。
弘が持つには少し可愛らしい傘を開いた。雨が傘を叩く音が聞こえる。
雨が好きだと笑った彼女の姿が頭から離れない。