五月病なんていう言葉があるように、特に何があるわけでもないというのに、気怠い日々が続く5月のある日。本日最後の授業終了を合図するチャイムが鳴った。
重たい瞼をなんとか持ち上げ続け、机に突っ伏したくなる衝動を耐え抜いた山瀬弘は右隣の席を見て顔をしかめる。視線の先には金色の毛玉――3年生になって突然髪を金色に染めたバカがスヤスヤと健やかな寝息を立てていた。ふわふわと揺れる金髪の中でキラリと光る銀色は、おそらくいつの間にか増えていたピアスだろう。
多少長いとはいえ清潔感のある黒髪に加え、比較的素行も良い弘に対してこの金髪の友人、塩谷純(しおたにじゅん)は嫌われこそしていないものの、手におえない問題児として教師に認識されている。何度注意してもピアスを外して来ない、制服を規定通りに着ない、授業を真面目に聞かない……。それでも彼の周りに自然と人が集まるのは、中学生特有の大人へ反抗する強い者への憧れか、それとも彼の人柄か――。塩谷と仲の良い弘には判断できない、というよりも、あまり興味のない事柄である。
(うっぜぇ、爆睡してやがる)
規則正しく上下する肩は、ガヤガヤと教室が騒がしくなっても乱れようとしない。弘が眠気と戦って勉学に励んでいたというのに、この自由奔放な友人は完全に夢の中のようだ。
さて、どうしてくれようか。などと考えていると、弘の机にそっと英和辞典が置かれる。見上げれば爽やかな笑顔を浮かべるクラスの美形代表が、クイッと親指で塩谷を指していた。
「……コレで?」
「だって山瀬、ストレス溜まってそうな顔してるから」
そう言い切ったのは相模葉月(さがみはづき)。同じ男から見ても綺麗な顔をしている弘の友人の一人であるが、爽やかな外見とは裏腹にかなりいい性格をしている。その事実を知っているのは、このクラスではおそらく、弘と塩谷くらいだろう。
そして、弘の脳内では寝ている塩谷とほほ笑む相模を天秤にかけ――
「んぐぉっ!?」
「おはよう塩谷。良いご身分じゃねえか」
塩谷の頭部に英和辞典を落とした。
よく考えなくともコイツが悪いのだ。けして、長いものに巻かれろ的な考えではない。断じて違う。
後頭部を押さえて呻いている塩谷をまるでわが子の失敗を見守るかの如く穏やかに笑う相模。声に出しては言えないが、悪魔だ。そんな悪魔の命令に従い友人に制裁を加える弘自身も十分に酷いという自覚は有る。かろうじて。角を使わずに面積の広い表紙を使ったのは弘の優しさなのだが、そんな些細な優しさはどうやら鈍感な塩谷には伝わらないようだ。
「おっまえ……なぁっ!」
「キレんなよ、寝てた塩谷が悪い」
「いやいや、それは個人の自由だッ!」
「勉学は学生の義務だ。つーか、隣でぐーすか寝てたのが腹立つ」
「それだろ、それが本音だろっ!?」
「ホームルーム始めるぞー。後ろで騒いでる塩谷とー……山瀬、放課後荷物運びな」
運の悪い日、というのは本当に何をしても悪い方向にしか転がらない。何が入っているかさえ分からない重い段ボールを下ろし、大きく伸びをする。頼まれた荷物はこれで最後のはずだ。本来ならば同じように騒いでいた塩谷もこの場所に居るはずだが、悲しいことにこの場に積み上げられている段ボールは全て弘が一人で運んだ物だ。
不良にしか見えない外見をしているものの、どうやら塩谷は運動神経が良いらしい。野球部キャプテンの肩書を持つ塩谷は、ホームルームが終わるとすぐに、「俺、部活あるから!」なんて笑いながら去って行った。
野球部なら坊主にしろよバカヤロー。
そしてもう一人の友人――相模はというと、「じゃ、頑張って」の一言。手伝おうなんて気は一切ないらしい。薄情な奴め、なんて心の中で愚痴を言うものの、与えられた仕事はしっかりこなしてしまうのが弘である。積み上げられた段ボールを再度見て達成感に浸りながら、リュックを背負い直し昇降口へ向かった。
思い返せば校舎内がやけに暗かった気がする。
独特な埃っぽさと汗のしみついた靴の臭い。昇降口特有のひんやりとした空気。靴を履き替えいざ帰宅、と思ったところで弘はピタリと足を止めた。校門へと続くアスファルトの道は色を変えていて、ザァザァと耳障りな音が響いている。いつもなら放課後の部活動で賑わっている校庭には誰一人おらず、代わりに普段は人があまり通らない移動通路に暑苦しい男子生徒達が綺麗に並んで横になっている。どうやら筋トレをしているようだ。あの目立つ金色毛玉は見当たらないので野球部ではないだろう。
――いや、そうじゃない。そうじゃなくて。
「雨、か……」
ぽつり。
本当に今日は運が悪い。天気予報は一日曇り。雨が降るなんて聞いていないし、もちろん傘なんて持っていない。傘に入れてくれそうな友達はとっくに帰宅しているだろう。帰りが遅くなってしまったのは居残り雑用のせいで、その雑用をすることになったのは教室で騒いだから。騒ぐ原因となったのは塩谷純。全部アイツのせいだ、そうしておこう。
多少強引であってもそう考えなければやっていられない。喉の下をちくちく刺すイラつきは、全て気のいい友人に押し付けることにして、どうせ濡れるのなら走って帰ってしまおうかと一歩足を踏み出す。
「傘、ないの?」
ぴたり。前に出かけた足を元の位置に戻す。声がした方を向くと、弘が立っている場所から数歩後ろに、いつかの保健室で見た女生徒が立っていた。
薄い色の髪は相変わらず。髪と同じ色の睫毛は目に影を作っている。初めて見た時は座っていてわからなかったが、彼女のスカートは弘が想像していたよりも長い。第一印象と同じく“目立つようで目立たない女生徒”だ。
「あー、うん。そう」
「そっかぁ」
「……え、何?」
「ええっと……濡れて帰るつもりなのかなって」
そう言うと彼女は微笑みを浮かべて首をかしげた。さらりと亜麻色の髪が流れる。彼女は何故自分を引き止めたのだろうか。ほんの少しの緊張とこのおかしな状況に、自分の心臓がドキドキと大きく脈打つのが聞こえる気がした。
人気の少ない放課後の昇降口。予想外の雨と傘の無い自分。飛び出そうとした自分を引き止めた女生徒――。普通の生活をおくり、普通に成長をした健全な男子中学生である弘にとって、このシチュエーションは非常においしい状況なのである。
もしかしたら、この女生徒は俺を気にしているのかもしれない。もしかしたら、傘を一本だけ持っているのかもしれない。もしかしたら、その傘に一緒に入れてくれるのかもしれない。もしかしたら、もしかするかもしれない。とにかく、考えるより聞く方が早いだろう。
「えーっと、もしかして傘持ってたりする?」
「え、無いよ?」
もし、なんて無かった。
「今日、雨降るなんて言ってなかったのに酷いよねー」
「……そうだね」
「でも多分すぐ止むよ。ほら、あっちの空明るい」
なんなんだろう、この子は。
彼女の独特なテンポが少しやり辛い。会話らしい会話はできなさそうだ。
(というよりなんで俺、この子と話してんだろ……)
ぼんやりとそんな事を考えていると、遠くを見ていた彼女がパッと弘の方に顔を向けた。突然のことに慌てて視線を逸らす弘。目を外に向けた事で視界が変わり、ようやく今までずっと彼女の横顔を見続けていた事に気付いた。なんでだろう、なんて決まっている。今まで恋人なんていた事がない弘にとって、たとえ見知らぬ女生徒であっても異性との会話は特別なものなのだ。相模のように女の幼馴染が居たら、塩谷のようにバカだったら、今より少しは意識せずに話せていたのだろう。隣に異性がいるだけでドキドキしてしまう自分が情けない。
雨はまだ降り続いている。
「どうしたの、怖い顔して」
くすくす。
隣で彼女が心底おかしそうに笑うのがわかった。
「別に」
「雨、きらい?」
「……まぁ、嫌いかな」
「そっかぁ」
通り雨に足止めされた日。
雨が上がるまで彼女とぽつりぽつり、話をした。
「私は好きだよ」
「へぇ、そうなんだ」
「そうなんです」
彼女は雨が好きらしい。