時々、積み上げてきたものを投げ捨ててしまいたくなる時がある。
悲しかったこと、嬉しかったこと、努力したこと、辛かったこと、幸せだったこと。たとえばそれが全て夢となり、過去として残らなかったとしたら、十六年間生きてきた三崎彩という存在は消えてなくなってしまうのだろう。そう思えば、過去の苦労も決して無駄ではなかったのだと思う事ができる。一つ一つの思い出が、今の自分にとって無くてはならない大切なものなのだ。それなのに、大切なその思い出こそが、自身を苦しめる重荷になってしまう。愛しいと思えば思うほど手放し難くなり、逃げられなくなる。
けれども、今の自分を守る為にそれらを捨てずに抱えているのは、紛れもない自身の意思である。過去を拒絶し、全て投げ捨ててしまうことだって出来る。逃げようと思えばいくらでも手はあるのだ。
それは、誘惑。
楽になってしまえという悪魔の囁き。その手を取ろうとした事なんて、数えきれない程ある。どんなに笑って過ごしていても、ふと振り返ればそいつはいつだって三崎を手招いているのだ。
まだ冷たい空気を吸い込むと、他人より幾分脆いこの体は過敏に反応し、喉の奥をじくじくと刺激する。いつもは心地好く感じるはずの朝の澄んだ空気でさえ、睡眠不足を訴える今の体は受け付けてくれないようだ。廊下には生徒の挨拶が響く。
――頑張るって、決めたのにな。
三崎は次から次へと込み上げてくる咳を必死にのみ込みながら、保健室の扉に手を添えていた。この空間に入る事に酷く罪悪感を覚えてしまう。やると決めた事をやり通せない情けなさ。一日の始まりだというのに、自分一人だけ逃げてここにいるという事実。
いつもより重く感じるその扉をゆっくり開いた。
「うわっ!」
それと同時に思わず叫び、激しくむせる。
入り口のすぐ近くに人が立っていた。白衣を着たその人は、扉を開けようとしていたのか、少し不自然な形で宙を彷徨っていた手を咳き込む三崎の背に添えた。そのまま抱えられるように椅子へと導かれる。さっきまで吸っていたのか、ほんのりと煙草の匂いがした。
「薬は」
心地の好い声に促され、ゆっくりと鞄から吸入薬の入った巾着を取り出す。犬の顔が大きく縫い付けられているその袋は、裁縫の苦手な父親が大事な薬を失くさないようにと、まだ三崎が幼い頃に作ってくれたものだ。お世辞にも良くできているとは言えないけれど、三崎は今でもその袋を使い続けている。これも捨てられない宝物の一つだ。
暫くすると、先ほどまで喘いでいたのが嘘のように咳は落ち着き、出された湯気の立つコーヒーに口をつける余裕もできた。カップの隣にはスティックシュガーのゴミが幾つも散らばっている。そうでもしないとこのコーヒーは苦すぎて飲む事ができないのだ。体の内側からじんわりと温められ、ふつふつと湧き上がる眠気。昨日もバイトから帰った後、なかなか寝付けず空が白むまで机に向かっていたのだから当然だろう。
「昨日は寝たか?」
信じられないほど苦いであろうコーヒーを平然と飲む白衣の男。まるで三崎の生活を見通しているかのように、その保険医はため息混じりに聞く。
「嫌だわ藤嶺せんせ!三崎も健全な男子高校生なのよ?夜とか寝不足必須でしょうよ」
うふふ、などというわざとらしい笑い声が零れる。指を揃えた手を口に添え、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべると、藤嶺の眉間にはあからさまに皺が寄せられた。
「それだけ元気なら教室行け」
藤嶺の素っ気ない一言の後、丁度良く一限目が始まる事を知らせるチャイムが鳴った。沈黙。チャイムが鳴り終わると同時に藤嶺へ視線を送る。一瞬、目が合ったけれど、すぐに藤嶺はカップを置いてベッドを囲うカーテンの向こうに消えた。布の擦れる音がする。きっと、布団を直しているのだろう。保険医のイメージとは少し離れたクールな態度とは裏腹に、いつだって甘えたいという気持ちを汲み取ってくれる。
「藤嶺ってば、やっさしぃ」
茶化すようにそう言うと、カーテンの向こう側で藤嶺が大きくため息をつくのが聞こえた。
枕元には大切な巾着袋。ふかふかで清潔な布団に埋れて、早く眠れ、早く眠れと頭の中で繰り返す。少し前まではあんなにも睡魔に襲われていたというのに、体を横にした途端に目が冴えてしまうのは何故なのだろうか。ずぶずぶと気持ちが沈み、考えなくても良い事まで考え出してしまう。
藤嶺が保健室を出たのは少し前。担任への連絡や、朝にやるべき仕事がまだ済んでいなかったらしい。思い返せば三崎が保健室に入った時、藤嶺はどこかに行こうとしていたような気がする。
授業は既に始まっている。生徒の騒がしい声は無く、どこかの教室から教師の声が響いてくる。カチリ、カチリ、規則的に動く時計の針の音。
なんだか無性に心細くなった。体を捻り横を向けば、目の前でフェルトの犬がにこにこと笑っている。手を伸ばし、撫でてみた。
――おいお前、たまには泣いてもいいんだぞ。
変化なんてあるはずもない。相変わらず笑い続ける犬を見て、力のない笑みが零れる。これではダメだ。もっと心の底から笑わなければ、甘い誘惑に負けてしまう。今ある幸せ全てを捨てて逃げたとしたら、きっと後悔するだろう。だから、頑張りたい。笑っていたい。一度でもそれを止めてしまえば最後、もう二度と元には戻れなくなってしまう気がするのだ。
暗い思考がぐるぐると同じ場所を巡り続けていると、不意に保健室のドアが音を立てて開いた。ドキリと心臓が跳ねる。藤嶺が帰って来たのだろうか。静かな保健室に、一人分の足音。外から入ってきた姿の見えないその人物は、まっすぐに三崎が居るベッドに向かって歩いてくる。カーテンが揺れた。息を飲む。
「――彩」
聞き慣れた声だ。
「ななせぇ」
へにゃり。全身から力が抜けた。
幼馴染みという存在は、高校生にもなるとなんとも微妙な距離感になってしまう事も少なくないだろう。幼い頃は仲が良くても、お互い違う事に興味を持ち、新しい友達を作り、進路は別れ、いつの間にか疎遠になってしまう。
鶴賀七瀬という幼馴染みもまた、三崎とは別の道を進み始める――事もなく。七瀬は未だに三崎と同じ学校、同じクラスで授業を受け、行動を共にしている。もちろん、他に友達が居ないわけではない。むしろ三崎は友人が多いという自覚がある。可愛いのに口が悪い葉加瀬に、派手な見た目に反して気遣い屋な山口、それから――
「ん、飲む?」
突然、思考を引き戻すかのように目の前に現れたペットボトル。ゆらゆらと揺れるそれには、見慣れた赤いラベルが巻かれていた。
「おー、りんごだー。飲む飲む」
手渡されたそれを両手で受け取り、キャップを捻る。初回限定の心地よい音を立てて開かれたペットボトルからは、甘いりんごの香りが漂う。少し前にコーヒーを一杯飲んだ事には、二、三口、飲んだ後に気がついた。
――でもまぁ、これは別腹ってことで……。
りんごジュースは三崎が一番好きな飲み物だ。それを知っていて買ってきてくれるのは流石幼馴染みといったところだろうか。
ぼんやりと今までの七瀬を思い出していると、急にベッドが沈んだ。すぐ隣に七瀬が腰をかけている。なんとなく、そのまま横顔をじっと見つめた。
七瀬は三崎が挫けそうな時、いつだって傍にいた。同情するでもなく、諭すでもなく、ただ当たり前のように隣にいてくれたのだ。
「……くそう、この男前め!」
七瀬の腕を小突く。硬い。
「なに」
「弱ってる時に好物の差し入れしてもらって、その子が同じベッドに腰掛けてるこのシチュエーション!女子だったら絶対に好きになってるのにー!って話」
「あー……あ?」
くるり。七瀬の顔がこっちを向いた。人の目を真っ直ぐに見てくるところは、始めて会った時から変わっていない。
「弱ってんの?」
その言葉に少し、ドキリとした。
七瀬はまだ、じっとこちらを見ている。
「ここだけの話、ただの寝不足でさ――」
言い終わる前に伸ばされる手。大きなその手は三崎の肩を押し、華奢な体をベッドに沈めた。
いきなりの出来事に驚いたけれど、これは七瀬の優しさだ。言葉の足りないその行動がなんだか可笑しくて、くすぐったい。今度は自然な笑みが零れた。
一人では上手く笑えなくても、二人なら自然と笑顔になれる。
七瀬が傍にいるという事がどれだけ三崎の支えとなってきていたのか、きっと七瀬は知らないのだろう。
「ちゃんと寝るってば、もー……七瀬は心配症だなぁ」
「うん」
七瀬が来ただけで、沈んでいた気持ちは一気に引き上げられてしまった。
体の内側からなんだかふわふわと温かくなって、勝手に瞼が落ちていく。先程まで寝付くのに苦労していたのが嘘のようだ。
今ならきっと、気持ちよく眠る事ができるだろう。
『貴方が傍に居るだけで』
――俺はずっと、笑っていられる。
(おい鶴賀、授業はどうした)
(……)