Heralist


遠くの景色はゆっくり穏やかに、近くの景色は風のように荒々しく流れる。広い窓の外に広がる見た事もない風景が故郷から遠く離れた場所に来た事を告げていた。規則正しく揺れる車内はざわざわと人の話す声で満ちており、この列車が観光地として有名な街に近づいているという事が分かる。
窓の外に向けていた視線を手元に移す。ぎゅっと握り合わせた手はいつの間にやら白く冷たくなっていたようだ。息を潜めるように浅く繰り返していた呼吸を止め、深く吐き出す。ドキドキと耳まで届く心音は不安を表しているのだろうか。期待と興奮の色に染まっている周囲の人々の中で、自分だけが妙に浮いてしまっている気がした。

故郷から出るのは始めてではない。名のしれた画家である父は、ひなたが幼い頃から頻繁に美しい景色の街へと連れ出してくれていた。父の後を追って見た風景はどれも輝いていて、父と出かける事をいつも楽しみにしていたのだ。口数が少なく笑う事もない父が楽しそうにしているのを見たのもどこかの美しい景色を前にした時だった。
父の真似をして絵を描き始めたのはいつだったろうか。自分の中にあるどの古い記憶を覗いて見ても、小さな手にはしっかりと画材が握られていた。

今、自分の膝の上に組まれている白く骨張った手。その指には小さな傷跡がひしめき合うように並び、肌を不気味な色に変えている。
耳元で聞こえる心音が大きくなった。思い通りのものが描けない苛立ち、不安、無力感。諦めたような教師の声、期待を込めた母の慰めの言葉、同級生の憐みの目。思い出すだけで息苦しさが募るような毎日に、いっそ呼吸を止めてしてしまいたいと思っていた。そんな時である。
「アクアアルタへ行きなさい」
何も語らない父が突然、そう言った。


爽やかな風が頬を撫でる。人の流れに呑まれて一歩、また一歩と駅の外へ向かえば眩しいくらいに光に包まれた街が目の前に広がり、ひなたは思わず目を細めた。ぴしゃりと音を立てて靴が水に浸る。街の煌めきは歩道をも沈める水に太陽の光が反射したものだろう。
水の街、アクアアルタ。街全体が水に覆われたこの幻想的な風景を目当てに遠く離れた土地から観光に来る人は多い。観光客で賑わう駅前の広場。そこから幾重にも伸びる水路にはアクアアルタの名物でもあるゴンドラが並んでいる。
(長靴を履いて来るべきだった、かな……)
視線を落とすとパリッとした暗い緑色のズボンに黒いローファーが目に入る。水に浸ってしまえばどちらもすぐダメになってしまうだろう。水に覆われた街だとは聞いていたけれど、まさか歩道まで水没しているとは。手に持っているトランクにはもちろん、斜め掛けの鞄にも長靴は入っていない。何日滞在するか決まっていないという事もあり衣類は必要になったら現地調達するつもりで来ているのだ。とにかくトランクを落とさないようにしなければと見た目よりもうんと軽いそれをしっかりと握りしめ、鞄のポケットから紙切れを取り出す。これからひなたが住む事になっている家への地図である。必要最低限の道だけ書かれたその地図を見ればほんの少し胸が高鳴った。自分を知る者は誰も居ないこの土地での生活がなんだかとても魅力的なものに思えてくる。
(……違う、遊びに来たわけじゃないんだ)
ゆっくり、ゆっくりと胸の中に溜まっていた息を吐き出す。浮かれてはいけない。溢れ出てきそうな負の感情をぐっと飲み込み、ひなたは顔を前に向けた。ゴンドラには乗らずに歩いて行こう。一歩、足を動かすとまたぴしゃりと水の音がした。


(ここ、どこ……)
慎重すぎるくらい地図を確認しながら歩いてきたはずだ。けれども地図に示してある道はどうやら水路も混じっているようで、ゴンドラで移動すれば一直線に行ける道も歩道を探して周り道。そうこうしているうちに現在地がわからなくなってしまった。賑やかな駅前とは雰囲気がガラリと変わり、静かなこの場所はおそらくアクアアルタに住む人々の居住空間だろう。まだ日が高いという事もあり人が歩いていない訳ではない。道を尋ねようと思えばいつでもできるのだが、人に声をかける事はひなたにとってとても難しい行動なのだ。
声をかければほとんどの人は立ち止まりこちらを見る。そこからの相手の時間はひなたの為に使われるのだ。もしかすると相手は急ぎの用事があるかもしれない。もしかすると相手はこの土地に詳しくはない人で、道を尋ねるは迷惑に思うかもしれない。心の優しい人であった場合、相手は目的の場所を一緒に探してくれるかもしれない。それは紛れもなく相手の時間を奪う行為だ。
君ばかり相手にしていられない。
自分にそう言ったのは誰だったろうか。自分自身、他人の限りある時間を費やしてもらうほど、紫藤ひなたという人間に価値があるとはどうしても思えない。

心臓が体に血を巡らせようとどくどく動く音が響いているのに、全身から血の気が引いていく感覚。水面のすぐ下には硬い地面がある筈だ。それなのに足を付けたそこはなんだかふわふわと柔らかい気がした。世界が揺れる。息を吸っても息苦しさからは解放されない。苦しい、逃げたい、消えてしまいたい、いっそこのまま……

「大丈夫?」

聞こえた声にびくりと体を強張らせる。体の中の音しか伝えてこなかった耳は、その声を鮮明に拾い上げた。深く息を吐きだす。次に吸い込んだ空気はひんやりとしていて、妙に体の中へ染み込むような気がした。
「体調悪い?」
顔を上げると背の高い男の人が立っていた。穏やかな風に揺れる髪はとても落ち着いた色をしている。ひなたや駅前に溢れかえっていた人々とは違い、シンプルなシャツに薄手のカーディガンを羽織っただけのラフな服装。おそらくはここの住民だろう。その人は不思議そうに、様子を伺うように首を傾けた。その仕草を見てようやく自分は今この男性に話しかけられているのだと思い出す。慌てて口を開くも何を話せばいいのかがわからない。この人は何て言っただろうか。
(大丈夫、体調、悪い……?)
それはひなたを気遣う言葉だ。尚更何か返事をしなければならない。はやく、はやくしなければ。先ほどまでは全く気にならなかったというのに口の中が妙にぱさぱさしている気がする。喉が渇いているのだろうか。
「あ、の……すみません、大丈夫です」
何とか絞り出した言葉は何の面白味もない言葉。お気遣いありがとうございます、とでも言えれば良いのに相手の顔を見てしまうと次の言葉は出てこない。せめてにこりと笑顔を向けることができれば。引き攣る顔を隠すように視線を足元へ落とす。踝ほどまでしかなかった水はいつの間にか足首が浸かるほどになっていた。
「観光客?」
そのままこの場所を離れれば済むというのに、男性はまたひなたに声をかける。気をつかわせてしまったのだろうか。せめて彼の気を悪くさせないようにと必死に言葉を返す。
「あ、いえ……」
「街並みも綺麗だけどこっちはあんまり店ないっしょ、迷子?」
「う……はい」
迷子、と改めて言われると少し恥ずかしくなった。俯いていた顔を更に下げる。背の高い彼からはひなたの頭の天辺が見えているかもしれない。
「行き先は?」
ははっ、と短く笑った彼は当然のようにそう聞いた。慌てて手に持っていた手書きの地図を広げると近付きすぎない距離から覗き込んでくる。それに少しだけほっとしながら地図に指を滑らせ目的地を指し示す。
「ここ、なんですけど……」
「……トゥアンド」
ToanDという文字を見てほんの少しだけ驚いたような顔をした。おそらくはお店であろうその場所がどんな所かは当然ひなたは知らない。彼の変化に戸惑い、思わずじっと顔を見ると目が合った。
「あー、うん。通り過ぎちゃってんだよ」
近くだし案内する、と屈んでいた体を起こし歩きだしたその人の後を慌てて追いかける。
この人はどうしてこんなにも親切にしてくれるのだろうか。自分はそんなに心細そうにしていたのだろうか。頼りなさそうに見えたのだろうか。しっかりしなければいけない、とトランクを握る手に力を込めた。

ひなたの事を気にかけてくれる優しい故郷の友人が頭を過る。友人の優しさに応えなければと必死になっていた。いつも励ましてくれた友人に「君のおかげで頑張れた」と、感謝の気持ち伝えたかった。けれどもそれを言うにはあまりにも自分は未熟すぎたのだ。「何の力にもなれなくてごめん」そう言った友人は酷く暗い顔をしていて、友人をそうさせてしまったのは自分の弱い心のせいなのだと気付いたはずだった。
頑張らなければ、もっと立派な人間にならなければいけないのに、結局この見ず知らずの人の大切な時間を奪ってしまっている。今までの自分は故郷に置いてきたつもりでいたのに、新しい土地でも自分は弱く情けない人間でしかないようだ。

(もっと、しっかりしないと……)
少し足を早く動かし一歩先を歩く男性の隣に並ぶ。その様子を見た彼はまるで隣に来るのを待っていたかのように、すぐに口を開いた。
「観光じゃないって言ってたけどもアクアアルタには何をしに?」
「……父が昔使っていたアトリエがあって、そこにしばらく住むことになったんです」
「へぇ!じゃあ今日からよろしくだ」
「えっ、あ、はい。よろしくお願いします」
慌てて頭を下げると彼はまた短く笑った。会話が途切れる。
あなたはこの近くに住んでいるのですか。
いつからこちらにお住いですか。
お名前を伺ってもよろしいですか。
何か喋らなければと必死に話題を探すけれど、どの質問者も口から出て行ってはくれなかった。人と話す時、話題は全て相手に任せてしまうところも早く直さなくてはならない。
そして、彼はじわじわと歩くスピードを落としていく。つられてひなたの歩調も緩やかになり、やがて二人はその場に立ち止まった。
「あそこ、見えるか?真っ直ぐ先」
長い指の先を目で追う。少し先にある二階建ての家。この街の景観に溶け込んだその家の一階部分はどうやらお店になっているようだ。扉の近くには控えめな看板が出ており、そこには確かにToanDと書いてあった。
「トゥアンド……はい、見えます」
「目が良いんだな」
「えっ……そうですね、目は昔から」
「悪いよりは良いんだろうけど、見え過ぎても疲れるっしょ」
「……そう、ですかね?」
思わず首を傾けると彼はまた短く笑った。よく笑う人だと思ったけれど、もしかすると彼にとっては相槌のようなものなのかもしれない。そんな些細な事でも自然と相手の気分を害さずに出来る彼がとても眩しく見えた。自分とは住む場所も、見てきた世界も、考え方も違う、とても綺麗な精神を持っているのだろう。
ぽん、と軽く背を押される。
「それじゃ、見つかると長いし俺はここで」
「あ、はい!……あの、ありがとうございます。大変ご迷惑おかけしました」
深々と頭を下げると、彼は手をひらりと振って来た道を戻って行った。わざわざ道案内のためにここまで歩かせてしまったのだろう。自分が迷わずに一人でここへ来ていれば彼に迷惑をかける事も無かったのに。もしまた会ったら、もう一度きちんと謝ろう。
遠くなった背中から視線を外し、目的地へ向かって歩きだす。次こそは失敗しないように振る舞わなければ、きっと自分はこれから一人で生活していく事はできないだろう。それでも人に迷惑がかからないのなら、一人で過ごしたいと思ってしまうのだ。


父が使っていたアトリエはToanDのすぐ隣にあるのだと聞いていた。アトリエは二階。そして、今はToanDの店主が一階に住んでいるらしい。店の前、少し高い場所にある入り口にはOpenの文字が入った札がかねてある。どうやらToanDは営業中のようだ。
営業中に声をかけたら迷惑になるだろうかと脳裏に不安が過る。けれども黙って家に入るわけにもいかない。ふう、と息を吐き出しノブを掴む。ゆっくりと扉を開くと鈴の音のような澄んだ音が響いた。
「あの、すみません」
決して広くはない店内には本を中心に文房具や食器、何かのキャラクターであろうキーホルダーなど、生活用品や用途のわからない不思議な物が場所を取り合うように並んでいる。必要な物から不必要なものまでなんでもありそうなこの店は一体何の店なのだろうか。いくらでも発見のありそうなこの空間は、日が暮れるまで宝探しをする子供の心を思い出させてくれそうである。
(あ、絵の具……)
ふと目に入ったのは色とりどりの油絵の具。その付近にはスケッチブックや練り消しゴムも置いてあった。ここで画材が手に入るのならば、絵が描きたくなった時も困らずに済みそうだ。

「いらっしゃい」
突然聞こえた声にびくりと肩が跳ねる。慌てて声のした方へ顔を向けると色の濃い金色の髪が目に入った。カウンターの前に腰をかけるように立つ背の高い男性。ToanDという店で働いている人は何人いるのだろうか。この人は自分の目的である店主なのかどうかが分からない。けれどもまずは自分は客ではないのだということを伝えなければと必死に言葉を探す。
「見ぃひん顔やなー」
「すみませ……っ」
思わず声を詰まらせる。その人の顔にはまるで目を突き刺すかのように伸びた蔦の刺青。顔の半分をキャンバスに描かれたその絵を見て、ひなたの思考はカチリと音を立て停止した。

「はじめましてぇ、ゆっくりしてきー」
ToanDの店主ーー閑雅春は、白い歯を覗かせて無邪気に笑った。



こんにちは、はじめまして。



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