Heralist


きっと僕は、この世界に必要のない存在なんだ。

それは、とても寒い日のことだった。吐き出す息は白く濁り、赤く腫れていた指先も随分と前に濁った色へと変わってしまっていた。きっと、唇も似たような色をしているのだろう。自分がどれだけ酷い顔をしているのかはわからなかったし、わざわざ知ろうとも思えなかった。
コンクリートの冷たい地面に座り込み、身じろぐ事もなくじっと空を見上げる。ここには薄汚れた僕しかいない。建物と建物に区切られた灰色の空は細長く伸びていて、僕はただ呼吸をしながらそれをぼんやりと見つめていた。冷たく湿った空気だ。雪が降るかもしれない。
このままここに居たら、僕は死ぬのだろうか。一体、どれだけの時間をこのままで過ごしたら凍えて死ぬのだろうか。これくらいの寒さで死ぬことはないのだろうか。餓死に至るまでは、どれくらいかかるのだろうか。
いくつもの疑問が浮かんでは消える。いっそ、僕の存在も消えてなくなってしまえばいいのに。

「ねぇ、死にたいの?」

唐突にふってきた声。見上げると、真っ黒なドレスを着た女が立っていた。艶やかな金髪が目を引く、誰もが羨むであろう美しい容姿の女だ。灰色の景色の中にぽっかりと穴が空いたような、暗いステージでスポットライトを浴びているような、彼女自身が輝いているような、そんな不思議な存在感があった。
僕は彼女を一目見て、まるで死神のようだと思った。そんな彼女が、他の善と呼ばれるどのようなものよりも僕に救いを与えてくれるような気がしたのだ。
何か塗ってあるのであろう形の良い紅い唇が零した言葉を思い返す。死にたいのかと彼女は聞いてきたはずだ。ならば僕が返すべき言葉は決まっている。
「あなた、死ぬつもりなの?」
もう一度、彼女が言った。
脳に直接染み込んでいくような気がするほど澄んだ心地のよい声だ。
彼女は笑っていた。それが僕には、何故だかとても寂しげに見えた。
息を吸い、張り付いている唇を引き剥がし、喉の奥を震えさせる。言葉を音にするにはこうしなければならない。酷く億劫なその行動でさえ、今は素直にやろうと思えた。他人に興味なんて持つことのなかった僕が、彼女とだけは言葉を交わしてみたいと思ったのだ。
「死にたいよ」
ただ一言、声にする。前に人と話したのはいつだったろうか。憶えていない。もう何年も話していない気もするし、つい数分前に話したような気もする。

僕にとって他人という存在は、ただそこにあるだけのものでしかない。それは異常なのだと、そこにあるだけのものが言っていた。ああ、そうなのかと、特に心が動かされることもなく、ただ言われたことをそういうものなのだと受け入れた。
――きっと、僕はこの世界に必要のない人間なんだ。
気付いた時には生じていた違和感。目の前にいるはずの他人が、画面の向こう側にいるように感じる僕の世界。画面の向こう側にいたのは、他人ではなく僕自身なのだと納得することができた。
それなのに、彼女はその隔たりをすり抜けて僕の前に現れた。
「そう……ならあなたの捨てるその命、私によこしなさい」
そして、そう言うのだ。もしかすると彼女は本当に死神なのかもしれない。
「殺してくれるのかい」
心が弾む。彼女は微笑んだ。ひどく優しい、慈愛に満ちたような、僕を哀れむような、そんな笑顔だった。
ごとり、音を立てて置かれる黒いトランクと、差し出される赤子。ようやく僕は彼女がずっとソレを持っていた事に気が付いた。
「あなたに当分は暮らしていけるだけのお金とこの子をあげる」
意味がわからない。
柔らかな布で包まれた赤子が僕の腕の中にそっと落とされる。彼女の温もりを失った赤子は顔を歪め、声を上げて泣き出した。見た目よりもずっしりと重いソイツが、酷く怖ろしく感じるのは何故だろうか。
「この子が、あなたの生きる理由よ」
彼女の言葉に顔を上げる。アンバーの眼が僕を射抜いていた。彼女の綺麗な手が僕の汚れた手を取り、赤子をしっかりと抱くように促す。
――何故。どうして。君は僕を救ってくれるんじゃないの?
頭に浮かぶ言葉を読み取ったかのように彼女は微笑む。
「捨てたければ捨てたらいいわ。それを決めるのはあなたよ」
彼女の靴が鳴り黒いドレスが揺らめいた。ふわり。彼女の舞台を飾るように雪が空から舞い落ち、彼女は僕に背を向けて歩んでいく。どこか物寂しくも感じるその光景に、僕は目を奪われていた。
ふと、穏やかに吹いた風と共に歌が運ばれてくる。僕の腕の中で、赤子の声がピタリと止まった。不思議な感覚に包まれ、思わず耳を傾ける。
それは、とても美しい子守唄だった――。


迷惑な贈り物



(おはようリック、もう昼だけどな)
(うん……うん、おはようティモシー)



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