――ぱた、聞こえるか聞こえないかの効果音を耳にした後、視界がぐにゃりと歪んだ。それに驚いて少しだけよろけると、何かに支えられて体勢を立て直される。一体何だ、と雨竜が後ろを振り返ろうとした瞬間、彼の視力を上げる役目の物をひょいと取り上げられた。そして濡れた部分の水分をティッシュで吸い取り、柔らかい布で包み綺麗に拭いている。目線は眼鏡のまま、雨竜を受け止めた一護がさも呆れたように鼻を鳴らす。


「何してんだおまえ」
「うるさいな、眼鏡返せよ」
「まあ待てって、もうちょいでピカピカになるから」
「ピカピカって何だ、子供じゃあるまいし」
「…オメーが眼鏡外してピカピカって言うとなんか可愛いな」
「馬鹿なこと言ってないで、眼鏡。」


早く返せと言いたげに(実際要求しているのだが)雨竜が手を出すと其処には置かず、一護は直接両耳の上に雨竜の眼鏡を掛けようとする。それを理解した雨竜も抵抗することは無く、静かに瞼を閉じた。カチャ、カチャリと無機質な音が教室内に響く。
次に雨竜が目を開けると視界は実に良好で、先程まで目の前にいた見慣れたオレンジ頭は窓の外をまじまじと見つめていた。窓から少し身を乗り出しつつ眉を思い切り顰めている。これでは女子から怖がられていてもフォローの仕様がないな、と思いながら雨竜も一護の横に立ち、その後頭部を机上に置いてある教科書で殴打した。


「ってえな…!」
「馬鹿、落ちたらどうするんだ。此処は三階だぞ」

注意しながら雨竜が窓を閉めようとするも、ばつが悪そうに舌打ちをした一護がそれを止める。


「いい、閉めんな」
「雨が教室に入って来るかもしれないだろ」
「小雨だから平気だって」


小雨だろうが雨は雨だという至極尤もな反論を押し退け、再度窓枠から顔を出す一護を咎めようと雨竜は再度口を開くが、先程まで脳内で浮かべていたものとは違う言葉を吐き出す。


「…雨、嫌いじゃなかった?」


小声で紡がれるその問いに一護は目を細め、ああと笑った。嫌いかと訊かれたら確かにその通りだ。頷くしかない。…けれども同じ名前であるならば、好きではないこの天気にも少しは愛着が湧くのである。月並みだとからかわれるのが目に見えているので決して口にはしないが。


「んー、ジメジメしてるしな」
「そうだね、髪がうねるから僕もあまり好きじゃない」
「女子じゃあるまいし…。あ、でもちょっとだけ曲がってんな。これ撫でてれば直るんじゃねえの?」


言いながら一護は雨竜の髪を一房摘み、その手で丁寧に撫でつけ始める。当事者である雨竜は何とも言えない面持ちで暫くその光景を見つめていたが、慣れたのかもう気にも止めないと言った風に再び窓の外に目をやる。雨が止む気配は無く、校庭のグラウンドはまるで煎れて時間が経過したカフェオレのように変色し、水分をこれでもかと言う位含んでいた。足で踏んだらさぞ不快なのだろうと思うと雨竜の眉間の皺は深くなる一方だ。


「…皺ばっか作ると早く老けるぞ。」


隣でぼそりと呟かれた言動に反論しようと雨竜が振り返ると、いつの間にか撫でる手を止めていた一護が眉間に皺を寄せた。ただ髪は掬ったまま、所在なしの手で弄んでいる。眉間の皺に関してなら、君だって人のことを言えないだろうに。今だったそうだ。雨竜がそっぽを向き、ぺろりと軽く舌を出す。そして一連の動作を凝視していたらしい彼の眉間を人差し指でぐいと押すと、間抜け面に拍車が掛かる。慌てたように何か言おうとする一護の眉間をもう一押し。面白いくらいに仰け反っていたのだが、いい加減にしろと言わんばかりに腕を掴まれてしまう。


「お、オメーの行動は脈絡が無さ過ぎて毎度焦るんだが…!」
「意味は無いよ。…けど余裕の無い君は嫌いじゃない」


嬉しそうに雨竜が笑うと、反して一護が頬をひきつらせる。その玩具を見つけたような瞳からは、もう逃げられない気がした。
 
 
 
 
「もう六月だね」


何故か懸命にセーターの裾を下にぐいぐいと伸ばしている雨竜がそういえば、と口を漏らした。


「つっても今下旬だからな。すぐ七月来るぜ?」
「六月といえばジューンブライドだね黒崎」
「聞けよ」
「どうして世の女性達はこんな湿気た季節に結婚したいのかな。髪のセットだっていつもより時間を掛けないと満足に出来ないだろうに。」


理解出来ないと言った風に雨竜が首を振る。常は女性的な思考の癖に、いざこういう時はそれをばっさり切り捨ててしまう石田雨竜という男の性質を一護は好いている。ちなみに彼が完璧なフェミニストになれない原因はそこなのだ、と教えてやる気はさらさら無い。今日び異性を侍らせている恋人など、見たいと思う男がいるのだろうか。否、無い。只でさえ女子(と一部男子)から受けの良いルックスなのだから尚更。
沈黙を保っている一護を訝しむように見つめる雨竜の頭をくしゃりと撫でる。


「縮みそうだから止めてくれないか」
「真顔で可愛いこと言うなよ。…ジューンブライドってな、英語名の由来になってるローマ神話の女神が結婚生活の守護神だったんだとよ。だからそれに肖って六月に結婚した夫婦は幸せになれる、と。」


女ってすげえなぁと首を縦に振る一護の説明(こういう知識も豊富なのはさすがロマンチストと言ったところであろうか)を聴きつつ隠す事もせず雨竜は顔を顰める。どこが凄いのだ。そもそも互いに好きで結婚したのなら、その時点で幸せなのではないのだろうか。あ、末永くという意味かもしれない。何にしろしっくり来ないが。


「石田はそういうの苦手そうだよな」


祈るだけならタダなんだぜ?笑いながら一護が窓辺に視線を向ける。分かっているのなら言うな馬鹿。否定はしないが。
溜息を吐きながら窓枠にぐたりと寄り掛かった雨竜は不意にあ、と声を上げ、空を指さした。それにつられて一護も指先に目を向ける。先刻までの雨雲は何処かへ消え去り、曇り空からは薄明光線(天使の梯子と言うのだったか)が射し込んでいた。


「――雨、止んだね」
「そうだな」
「七月にも入るしそろそろ梅雨明けかな。」
「そうだなー、夏休み入ったら海でも行くか?」
「えーと…、泳がなくても良いならいいよ」


躊躇するようなその言葉に、石田って泳げなかったっけか?と頭上にクエスチョンマークを掲げる一護の疑問に答える為、雨竜がセーターの袖口を肘まで捲りボタンを外す。するとまるで何かの動物に引き千切られたかのような傷痕が姿を現す。良く見れば他の箇所にも沢山。虚から受けた傷、なんて言わずとも分かる。暫くその光景を目にして一護は、無言で雨竜の袖を直し始めた。どうやら何か思案しているらしい。眉間の皺が酷い事になっている。


「別にこれだけが理由ってわけじゃあないんだけどね。それに日焼けすると赤くなるから痛いんだ」
「んー、」
「聞いてる?」
「…川か?川なら夏でも結構涼しいし足浸けるだけで平気だからな。人気も無えから困らねえし」
「おい」
「よし。」


じゃあ川行こうな、と一護が満面の笑みを浮かべる。自分も人の話を聞かないと言われる事が多々あるが、彼だって大概だ。人の話なんて聞きやしない。今はそれに怒る理由なんて無いに等しいが。


「…僕らあまり遠出は出来ないからさ、近場でよろしく」
「あ、その辺は抜かり無えから。」
「それは頼もしいね」


普段もこうだと良いんだけどな、雨竜が自分の鞄に手を掛けながらくすりと笑えば、一護の額に青筋を立った。


「本当に馬鹿だな君は。嘘だよ」
「あぁ!?……え、」
「ばーか」

 
 
夏休みが待ち遠しい、こんな事を思ったのは何時以来だったか。
 
 


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