少し錆び付いたドアノブを遠慮がちに回し扉を開けると、其処に居たのは天使だった。幾ら自分が隠れロマンチストだとしてもそれ以外に表現しようが無いのだ。クリスマスに教会で賛美歌を斉唱する聖歌隊のような白い服に、本物と見紛いそうな大きな翼。ほら、正真正銘天使だろ。
「な、何しに来た黒崎…。」
今にも爆発しそうな程顔を真っ赤にさせながら石田が声をぐ、と絞り出す。確かに、鍵を掛けていた筈のドアが勝手に開いてしかも自分はこんな恰好。気まずい事この上無い。着ている服を隠すように布でくるまりながら石田が此方をジト、と睨む。いや、悪かったよ。お前から合い鍵を貰ったから嬉々として開けに来た俺が悪かったよ。ちゃんとアポ取ってからにすれば良かったんだよな。でもお前だって少しは悪いんだ、今日はセルフコスプレショーをするから忙しい。の一言くらい前以て言っておいてくれたら良かったのに。そうしたら絶対来なかったのに。いや撮影しに上がり込むかもしれないがそれだけだし。…何を考えているんだ俺は。
「い、いや、課題しに来たんだけどお取り込み中みたいだし帰るわ。」
ダッシュで玄関のドアを開けようとドアノブに手を伸ばした瞬間、――俺の前を矢が飛んだ。青白く光るそれはドアに刺さると同時に光に融け、キラキラと余韻を残しながら消えていった。嗚呼、力加減出来るのか此奴すげぇな流石俺の石田…などとズレた事を考えていると、蟀谷にゴリ、不穏な音がした。
「い…石田……?一体何を…」
「一発ぶち込めば綺麗さっぱり忘れてくれるかな、と。」
その形相は悪魔だった。
「――よし。冷静になろう、石田。」
放たれた矢を紙一重で躱した後、再度構えられた左腕を掴んで強引に抱き抱え、奴を布団に押し倒して今に至る。羽根が痛んではまずいのでうつ伏せにしているのだが、何だか変な気分だ。
暫くの間もがき続けていた石田は、脱出不可能と悟ったのかはたまた服が皺になると思ったのかは分からないが動きを止め、溜息を吐いた。
「誰が」
「お前がだよ!何だこれ俺完全に被害者じゃねえか!!」
「それはこっちの台詞だ馬鹿!人が着替えているのに何勝手に不法侵入してるんだ!」
「侵入は認めるが不法じゃねえ合法だ!」
認めるんだ…と呆れている石田の頬をつつきながら俺に鍵を渡したのは誰だよ、そう言うと背中を思い切り蹴られた。見掛けによらず足癖が悪いのだ。俺にダメージを与えたと判り満足したのか、背中の羽根を毟り取り(非道い光景である)それを俺にぐいと押し付ける。俺が羽根を受け取ったのを確認した後、くるりと半回転して息を吐いた。
「今日はハロウィンなんだってさ、さすがの君も知っているだろうけれど」
「そりゃあな」
「外国の伝統的風習を企業が利益の為に流行らせるなんて、と思うから僕はあまり好きじゃあないんだ。」
それからクリスマスも、と付け加える。
「でも昨日部活中井上さんにこれを、ね…。」
きっと似合うから、と天使セットを半ば強引にプレゼントされたそうで。女子から貰った物を無碍に出来ない元来フェミニストである此奴は、一度だけでも、と思い着てみたのだろう。そこに偶然俺が現れたのだ。タイミングが悪すぎる。
「…帰った方が良いか?」
「これを着てどうこうしようって訳じゃあ無いから居ても良いよ」
「羽根は?」
「君が着けなよ」
真顔でされた提案を丁重に断り、存外触り心地の良いそれを机上に置く。石田だから良いものを、自分がこんな物を着けても似合う訳が無い。想像したら吐き気がした。
「で、君は何をしに来たんだ。食事を集りに、という訳でも無さそうだし」
「だから課題をだな…」
「?明後日提出なんだから別に急がなくても良いだろう。何でまた」
「明日はオマエんちに行くから今日の内にやっておこうと思ったんだよ」
「……もう来てるじゃないか。」
「………そうなんだよ。」
意味が分からないという石田の顔を見ていたら何だか自分が情けなくなってきた。そう、しようと意気込んだのは良かったのだが、悲しいかな序盤で思い切り躓いた。教科書や参考書を読んでも全く理解出来ないし、勉強面で訊ねられそうな友人もいない。唯一頼りになる石田は携帯を所持しておらず、ならば直接訊きに行く方が早い、と家を飛び出してきたのだ。
「…それで来たのか」
「おう」
まさかこんな衝撃的な場面に遭遇しようとは夢にも思わないだろうなあの時の俺。
「茶渡君に連絡しようとは思わなかったの」
「バンドの練習があるんだってよ」
「ふぅん。――で、どの教科?どうせ数学なんだろう」
「分かってるなら訊くなよ」
俺の予想通りの応答に呆れ顔をした石田が布団から立ち上がろうとして、べしゃりと躓いた。シーツに転がりながらえ?え?と困惑している石田を横目に石田の足元を確認すると、長い裾を爪先で思い切り踏みつけていた。
「石田、それやっぱ長ぇわ」
「え?」
何が、と言いたそうにしている石田を膝の上に抱え、裾を膝ほどの高さに結ぶ。きゅっと纏められたそれはリボンのようだ。
「ええと、…ありがとう?」
「訊くなよ」
「だって…、?これに引っかかってたのか」
「みてぇだな」
余った純白のそれを摘み上げ、石田が怪訝そうな表情をする。井上さんが寸法を間違えるようなミスをする筈が無いのに、と不審がった。長い方が似合うからなんじゃねえのと井上の名誉の為に言ってやりたかったのだが、それはそれで訳が分からないと喚き散らすに決まっているから口にはしない。
「それにしても似合ってんなあ」
「…うるさいな、井上さんが見立ててくれたんだから当たり前だろう」
袖口を摘み上げ、特に意味は無いが擦ってみる。良い生地だ。繻子と言うのだろうか、生憎手芸には疎い為よくは分からないが綺麗だ。部屋の電気に反射して服が光っている。触り続けているといい加減に止めないかと叱られてしまった。
「だったらもっと嬉しそうにしろよ」
「別に怒ってる訳じゃない」
「じゃあ恥ずかしがってんのか」
「………。」
図星のようだ。滅却師の衣装からして、日常的にコスプレをしているようなものなのに、何を今更。似合っているのだから胸を張ればいいのだ。他の人間(と死神)に見せたくはないが。
「まあつまり、だ」
「何だい急に」
「今オマエは天使なんだろ。コスプレだけど」
「羽根をもいだから堕天使だよ。」
「中二病か」
「失礼だな」
「あー、いいや話拗らすと長くなる。なぁ天使さんよ、俺に何か言う事あるだろ?」
ほら、聞いてやるから。そう促すと石田は頭上にクエスチョンマークを掲げた。解らないようなのでヒントを数個。今日はハロウィンだろ?それでオマエは今仮装をしてる訳だ。仮装した奴が周囲の人間に訊ねる決まり文句は?…と、これではまるでクイズである。だがこれでイベント事に疎そうな石田も漸く理解したらしい。
「…ト、」
「ト?」
「トリックオアトリート、とか?」
「…何で最後まで疑問系だよ」
「う、煩い!お菓子は持っているんだろうな?…別に僕は甘い物が好きなわけじゃあないけど、」
一応訊いてやるよ。白い肌を赤く染めながら、膝の上に座っている天使は俺の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて喚く。これはまた酷い照れ隠しである。あ、今数本程抜けたような。
「いや、持ってねえ」
「は?」
石田の手がぴたりと停止する。
「今日は俺、急いでたから勉強道具しか持って来てねえんだ」
「じゃあ何で訊かせたんだよ!」
「折角だから悪戯でもして貰おうかと。仮に俺が菓子持ってたとしてもオマエ甘いもん苦手だから口にしようとしねえだろ」
「だからって…、君がマゾヒストとは知らなかったよ。」
思い切り顔を顰めた石田は、俺の頬の皮膚をぐいぐいと引っ張りながら変態だの何だのと悪態をついてくる。
「マゾじゃねえよ、変な言い方すんな」
「うるさい、耳元で喚くな。大体悪戯って何だ、全裸のお前を木に括り付けて放置とかすれば良いのか」
「それは無しの方向で。」
別に可愛らしい悪戯を想像していた訳では無いが、予想の斜め上だった。そんな事をされれば職務質問は確実だ。変装せずに北川瀬を歩けなくなる。顔面蒼白な姿を悟られないよう、頭を石田の胸に押し付けた。セクハラでは無い、断じて無い。
普段ならば離れろと殴りかかってくる石田だが、今日は何故かそれが無い。俺の髪を撫でながらふむ、と思案する素振りを見せてこう言った。
「…じゃあ暫くこのままで。」
「は?」
「だから、このまま。」
君は動かないで、そのままにしていろ。そう石田は言うのだが、このままというのは俺の太腿に石田が乗っているこの状態で合っているのだろうか。これでは悪戯と言うより御褒美ではないか。
「石田、これで良いのか?」
「そうだよ」
膝の上は結構な優越感に浸る事が出来るのだと石田が微笑む。何でも相手の目線が自分より低くなる所がお好みらしい。まるで女王様だ。試しに話題を逸らしてみる。
「……石田さーん、俺の課題は…」
顔を埋めたまま、くぐもった声で意見すれば後にしろ、とバッサリ切られる。それならお前が前を向けば問題無いだろうと再度提案するも一蹴されてしまった。表情が見えない為どんな顔をしているのかは分からないが、不機嫌になっているのは確かである。
「それだと向かい合わせじゃなくなるだろう」
「は?」
「顔、見せたくない」
「いや、顔くらい良いだろ」
「だって君、僕がこういう事をすると直ぐ調子に乗るだろう。」
「………。」
「沈黙が物語ってるな」
呆れた、と石田が本日数回目になる溜息を吐き出す。全く以てその通りだ。勿論今だってそうだが、顔には出していない。但し残念な事に、顔を出そうが出すまいが顔を見られる心配が無い為この努力にあまり意味は無いのだが。
「僕だってたまにはこれ位、ね。いつも君がやっている事なんだから僕がしても良い筈だし」
「俺はこんなに高圧的じゃねえよ…」
あと顔だって隠さねえ。言いながらその細い腰に巻き付けた腕に力を込める。こんな時に相手の表情が見えないのは結構辛いものだ。
「そんなの僕の勝手だろう。何なら好きなように妄想していると良いよ、但し口には出さないよう気を付けてくれ。不愉快だ」
どうせ御目出度いその頭の中で生まれるものなんて、いやらしいものばかりなんだろう。石田の笑い声が鼓膜を刺激する。
「何だお前エスパーか」
「だから口を閉じろ」
ぐ、と薄い胸板を押し付けられる。あ、良い匂いがする。日頃石田宅で使用されている柔軟剤の香りだ。その香りに鼻腔を擽られながら、生殺しとはこういうことを言うのだろうとしみじみ思った。腕力は自分が上なのだからいざとなれば形勢逆転をする余地があるが、そんな事をすれば三月は口を聞いて貰えない上それこそあの高密度の霊子で生成された矢に射られかねない。それだけは御免である。何とか方法は無いものか。上手く機能してくれない脳で必死に思考を繰り返し、そして気が付いた。
「――石田、」
「トリックオアトリート」
「え」
そのままそっくり、返せばいいのだ。
突然の事で呆気に取られたらしい石田が俺の顔を上に向かせる。やっと顔が見れた。
「…甘味ならあるよ。此処は僕の部屋だからね」
「今手に持ってんのかって訊いてんだよ」
「は?持ってる訳が無いだろう。取りに行くから大人しく待っ…」
口の動きがぴたりと停止する。そして再度口を開くと一言、
「填めたな黒崎」
「填めたなんて人聞きが悪いぜ石田。…で、今お前は菓子持ってないんだな」
「…だったらどうした」
「じゃあ悪戯だよな」
その言葉の直後、案の定逃れようとした石田の腰を掴んで先程と同じ体勢になる。
「っ放せ黒崎!」
「嫌だ」
「…か、課題をしに来たんだろう?」
「後で。」
先程と同じように言い返せば、石田がキッと睨んでくる。いや自分でも無理だって分かってただろ今のは。
「つか何で降りようとするんだよ」
「嫌な予感しかしないからだよ!」
「お前はお前の悪戯してろよ。俺も勝手にするから」
え、と少し開いた薄い唇を自らの其れで塞ぐ。不意打ちだったからか、石田の瞳は閉じられなかった。互いに目を開けたまま舌を絡ませる。何というか、ムードも何もない。
「…偶には見下ろされるのも悪くねえな」
「馬鹿」
お互い様だろ、笑うと唇を噛みつかれた。君と一緒にするなと言うことらしい。似たようなもんだろ、俺もお前も。