「ただいま」

慣れ親しんだ玄関に入り、返事はないであろう挨拶を今日も繰り返す。リビングに電気は付いている。あいつの靴もある。
けれどやっぱり、返事はなかった。

カチャリとリビングへの扉を開ける。
テーブルに肘をついてテレビを眺める男は、静貴をチラリとも見る事はなかった。
風呂に入ったのか、いつもワックスで綺麗にセットされている野性的な茶髪はしんなりとしていて、昼間とは随分違う印象を与える。

道を歩けば誰もが振り返りそうになる程整った顔をした男。
名前は荒輝といった。

静貴と恋人同士になって早一年半。もはや付き合い初めのような恋人らしさはない。
独占欲が強く、甘える仕草が存外可愛いと思っていた初い頃の自分たちを思いだし、静貴は溜め息を吐いた。

「荒輝、ただいまってば」
「あぁ」

お帰り、じゃねーのかよ、バカ。
こっち見ろよ。何でテレビばっか見てんだよ。体が痛ぇんだ。少し位心配してくれたっていいんじゃねぇの。
人間として、さ。

「…おやすみ」

静貴はリビングの扉を締めて自室へと向かった。

返事があるかどうかの確認はしない。
…どうせ、あるはずがない。

シングルサイズのベッドに突っ伏すと、自分の匂いがして安心した。

別々に寝るようになったのはいつからだったか。
荒輝が浮気を繰り返すようになったのはいつからだったか。
いつから俺だけがこんなにも、

「…潮時っつーやつ?…ははっ」

独り言は誰に聞かれる事もなく空気に溶けるだけ。

痛む胸などない。
とうの昔に麻痺したはず。

流す涙などない。
とうの昔に枯らしたはず。

「体、痛ぇなぁ…」



腕で目元を覆った静貴は、唇だけで焦がれる男の名前を紡いだ。