楽になるよ、と差し出されたお菓子は甘くて、とても美味しかった。
俺はそれを噛んで飲み込んで、ゆったりとした闇に身を任せていたのだけれど。
ここには辛いものも怖いものも何もない。
けれど、ここにないものを、俺は欲しがっていた。
だから、名を呼んでくれる人がいる、辛くて怖くて苦しい場所に戻るのだ。
辛くて怖くて苦しくて、そして愛しい人のいる所に、帰るのだ。
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いつまで寝てるの。いくらなんでも、寝坊が過ぎるよ。
そう言って笑う声を頼りに、俺は目を覚ました。
意識が嘘のようにはっきりしている。ならばここは、現実だ。
見覚えのある部屋の景色と、懐かしささえ感じる愛しい香り。それだけで自分の居る場所を知った俺は、目の前でふふんと笑う友人に笑顔を返した。
「おかえり。どこ行ってたの、嵐」
「ただ、いま」
朔は俺の言葉を聞き、うっそりと目を細めた。
薄暗いオレンジの間接照明に照らされた朔は、それでもキラキラしてて爽やかだった。
「気分はどう?」
「…不思議なくらい、スッキリしてるよー」
「そりゃあね。あれだけ寝ればね」
ふ、と吹き出した朔はベッドの端に腕を置き、そこに顎を乗せる。
上目遣いで横になったままの俺を見上げる瞳は、ここ暫く彼らを避けていた俺を咎めなかった。
「長い夢…見てた、気が、する」
「うん。そうだね。全部夢だよ」
「そー、だったら…いいのになぁ」
「俺が夢だって言ったんだから、そうなんだよ。副会長の言う事に間違いはないのさ」
「…っ朔」
切羽詰まった声が出た。
朔は上がっていた口角を引き結び、黙って俺の言葉を待ってくれる。
ここは、頼の部屋だ。
頼の部屋の頼の寝室。そこに寝かされている俺と、何も聞かず「全部夢だよ」と言った朔。
尋ねずともわかった。
経緯も結末もわからないままだけど、少なくとも俺の身に起きていた事が、一番知られたくなかったこの二人に明かされてしまったという事だ。
大好きな頼に。そしてその想い人である朔に。
なまじ気分がスッキリしているせいで、俺の脳にはただ、終わった、と透明の文字が流れて消えていった。
「ごめんね…っ」
他にどんな言葉を告げればいいのか、俺には探す気力もなかった。
頼りない謝罪は、中身を詰めすぎて余計嘘臭く思えただろう。
朔はじっと、瞬きもせず俺を見返した。
綺麗な二重が怖い。その瞳の中に浮かんだ感情を悟る前に、俺は目を逸らしていた。
「そうだね。嵐はもっとたくさん、俺と頼に謝るべきだ」
「うん…っごめん、なさい」
「ほんとにね」
ズキズキと胸のど真ん中に、朔の言葉が突き刺さった。
それでも彼の言う事はとても正しくて、罪悪感ばかりが募る。
朔はきっと悩んだだろう。
俺の気持ちを知って、どんな気分で背中を押してくれたんだろうか。
それなのに裏切って、一人逃げて、挙げ句ーーこんな風に、介抱されている俺を、どんなに面倒だと思っただろう。
「でも嵐、わかってないでしょ」
「わかっ、てるよ、ごめんね朔、たくさん、迷惑かけたし、困らせたし、頼との事、応援してあげられなくって…!」
「違うよね」
深い溜め息を吐いた朔は、手のひらでパチンと俺の額を小突いた。
そして爽やかな顔をクシャリと歪め、聞いた事ないような苦悶に満ちた声を絞り出す。
「何でもっと早く、助けてって言わなかったんだお前は…!」
突き抜けていった。
頭も、心も、感情さえも、朔の言葉と表情に時間を止める。
「さ、朔…?」
「何が大丈夫だ!なんにも大丈夫なんかじゃないだろ!ごめんねもありがとうもいらないよ!友達だろ!俺はそんなのより、お前の助けてが一言、欲しかったよ…!」
額を叩いたまま動かなかった手が、すがるように俺の頭へ滑っていく。
それは大きくて暖かくて、よく知った大切な友人の手のひらだった。
「さ…さく…」
朔は悲痛に歪んでいた表情を和らげ、短く息をつく。
「お前ら、見ててヤキモキするよ。二人揃って、お互いが俺を好きだなんだって勘違いしてさ」
「…え、いや、朔?」
「あり得ない。万が一にもあり得ない。お前らみたいな面倒な男と付き合うくらいなら、俺は早瀬兄弟の下僕になった方がマシだよ。それに嵐が謝る事なんて一つもないだろ。諸悪の根元は根暗の頼なんだから」
「待って朔、意味が…っ」
「なぁ、そうだろ?頼」
「…そうだ」
「…!?」
ひゅ、と吸い込んだ酸素が喉に絡まった。
矢継ぎ早な朔の言葉に理解が追い付く前に、俺の耳は優先的にその声を拾い上げ、鼓動を加速させていく。
ゆっくりと朔は立ち上がり、俺の頭を撫でていく。
頑張れ、と呟いた優しい声が、視界に入った男の姿のせいで俺をすり抜けていった。
会いたかった。会いたくなかった。相反する感情がせめぎ合い、最後に残ったものは。
「頼…っ」
それでも会えて嬉しいという、濁りのない恋心だった。
「…よかった。ちゃんと目、覚めたか」
「う、ん」
「泣くなよ。…謝る前に、抱き締めたくなるじゃねぇか」
頼は情けない顔を惜しげもなく晒し、扉に預けていた背を正す。
そして一歩一歩確かめるようにベッドへ近付き、端っこにそっと腰掛けた。
「頼、変な事したら殺すよ」
「…あぁ」
「嵐。こいつ好きにしていいからね。土下座させても、指詰めても、チンコ切っても俺が揉み消してあげるから」
朔は眩しい笑顔で言って、俺が返事する前に寝室を出て行った。
パタンと扉が閉まる。
朔の残した物騒な言葉のせいで、寝室には俺たちの緊張とは別におかしな空気が満ちた。
「…あの、頼」
「…ん?」
「えっと…切ったり、は…しないからね…?」
「あぁ…」
気まずい雰囲気から逃げたくて、俺はゆっくり身体を起こす。
ベッドに手をついて座り込めば、腰から下が重苦しい痛みを訴える。思わず眉をしかめて、細く息を吐き出した。
「、おい、まだ寝てろ」
「や、だいじょー、…っ!」
慌てた頼の声と共に伸びてきた手が、俺の肩を弱い力で掴んだ。
無意識に息を飲む。大袈裟に震えた身体に何を思ったか、頼は傷付いた顔で手を引っ込めた。
「あ、は…っ、ご、ごめん」
咄嗟に謝って、ズルリとシーツの上を後ずさる。
こんな態度を取りたい訳じゃない。こんな事をしたら、また頼に嫌われてしまう。こんなはずじゃない。
そう思えば思う程俺は焦り、呼吸が浅く早くなっていった。
落ち着け。落ち着け俺。
頼は何もしない。怖くない。
あの日みたいに怒ってない。だから、早く落ち着け。
何度も言い聞かせるのに、瞬きする度暗闇に男の手が浮かび上がる。
その手は俺の頭を押さえて、目を覆って、それで。
「…っ、…!」
「あらし」
「は…っ、は、はっ」
「大丈夫だ。ゆっくり息を吸って。…吐いて。吸って」
「ふ、はぁ、は、頼…っ」
胸を押さえて蹲る俺に、優しい声が降り注いだ。
藁にもすがる思いで言われた通り肺に空気を送り込む。
そうすれば段々と呼吸は楽になり、もやがかっていた頭が落ち着きを取り戻し始めた。
「…悪ぃ。考えなしだった」
「ん、ううん、ごめ、…んね」
顔を上げると、頼は少しホッとした表情でベッドから降りた。
そして床に膝をつき、背中に手を回す。それはどう見ても、俺がパニックにならないよう、触らないよのアピールだった。
「痛いとこ、ねぇか」
「え…?」
「まだ息、苦しいか。気分悪いとか、ねぇか」
聞き覚えのある優しい声に、俺は目を瞬いた。
そうだ。俺はこんな風に、頼に尋ねられた事がある。夢の中で。彼の腕の中で。
恐らく最後に見た夢だった。幸せなだけの、暖かい夢だった。
「…頼、変なの」
「え?」
「夢の中の頼と…同じよーな事言ってるから」
思わずヘラりと笑顔を作れば、頼は面食らったように驚いていた。しかし、すぐに悲しそうに目を伏せてしまう。
「…夢じゃ、ねぇよ。それ」
「…え?」
「嵐。ーーごめん」
スローモーションのように、俺の目は一部始終を視認していた。
床に両手をついた頼が、その間に頭を落とす。流れるように自然に向けられた謝罪の形は、おおよそ平穏に生きてきた俺には縁のないもので。
「…っやめてよ!そんな事…!」
「どうか、話を聞いてほしい」
「わ、わかったから、お願いだから顔を上げてよ、やだよ頼、やめて…!」
なんの躊躇いもなく土下座する頼の肩を掴み、必死でグイグイ持ち上げる。身体は痛いがそれどころじゃない。こんな屈辱を頼が味あわなければならない程、俺は何もされてないと思った。
「頼、そんな事しなくてもいくらでも聞くよ、俺だって謝りたいんだ、だからお願い…っ」
ゆっくり顔を上げてくれた頼に安堵する。
何が頼をそこまでさせるのか、俺には全くわからないでいた。
「ねぇ、何がどうなってるの…?俺、わかんないんだ、ずっと夢ばっか見てて、それで起きたらここに居て、朔が居て、頼が居て、もうホント、訳わかんなくて…!」
「全部話す。嵐には聞いて、俺を裁く権利がある。だから…もう泣くなよ」
「裁く、てなんなの、いらないよそんな権利…っ」
子供みたいに袖で涙を拭う俺に、固い表情が向く。
あんなに優しく光る蒼の瞳は、どこか不安げに揺れていた。
「俺が、全部の原因だったんだ」
「え…?」
「クリスマスの夜と、嵐が生徒会室に居た夜。俺は…そのどちらも、勘違いをして選択を間違えたんだ」
苦しそうに唇を噛んだ頼は、それから一つずつ、俺の知らない真実を話始めた。
クリスマスの夜。俺が朔に告白していると思った事。
その次の日から、邪魔しないように距離を置こうとした事。
そのせいで俺を好きな先輩が、薬と人を使って暴挙に出た事。
俺の手首に残った拘束の跡を、朔とのものだと勘違いして嫉妬した事、気付いたら犯してしまった事。
それから、朔に怒鳴り散らされた事。
俺を勝手に部屋へ連れてきた事。
声が出ない俺を見て、嬉しく思ってしまった事。
犯人は既に処分を受けるべく学園に居ない事。
「く、ふっ、も、いー、よ…っ」
時間をかけ、時折詰まりながら話す頼に俺は涙が止まらなかった。
笑ってしまいそうなくらい、蓋を開ければ簡単な事だったのに、俺たちは二人してわざわざややこしい道ばかりを選び取っていたんだ。
朔の怒った意味がやっとわかった気がして、可笑しくて、馬鹿馬鹿しくて、…それでも、嬉しくて。
しゃくりあげる俺を見上げ、頼は首を振る。
「まだ、話終わってねぇ」
「も、じゅーぶん、だよ…っ」
「ダメだ。一番大事な事だから」
真剣にそう言った頼は、ズボンのポケットから取り出した携帯を操作し、俺の膝の側にそっと置いた。
涙が邪魔ばかりする視界の中、俺はその画面を見て声もなく喚いた。
シンプルな待ち受け画面だ。
電話とライン、インターネットのアイコンと、それからデジタル時計。
その背景は白く雪が積もった景色で、そのど真ん中には赤い何かが存在していた。
「この日からずっと、お前が好きだ」
ーー写真は、俺が頼への恋に転がり落ちた日の光景だった。
「う、嘘だ、頼…っ」
「嘘じゃねぇ。ごめん。こんな事言う資格、俺にはないのに。それでも言ってごめん。それから、これからも嵐が好きだ」
曇りのない頼の視線は、カラリと晴れた冬の空と同じ色をしていた。
「俺のした事は、あいつらと同じだ。お前に消えない傷を残した」
「も、それは…!」
「聞いてくれ嵐。これは、ケジメだから。みっともねぇ俺の、最後の足掻きだから」
ボトボト顎を伝って落ちた涙が、シーツに当たって音を立てた。
そんな酷い顔の俺を見上げたまま、頼は見た事ないような大人びた顔で笑った。
「もう一度、俺と一から始めてくれねぇか。二度と怖い思いはさせない。喧嘩…は、するかもしんねぇけど、嵐を泣かせたりはしないから。だから、どうか…一から、やり直させて、ほしい」
切実な声だった。
俺は考えるとか、言葉を失うとか、そんな事すら出来なくて、ブンブン首を縦に振りたくる。
「ん、うん…っ、俺も、もっかい、頼の傍に居たい、です…!」
「頭、振るなって」
「振るに決まってるじゃん嬉しいんだもん…っ」
それから、俺は声を上げてわーわー泣いた。
向こう一年分くらい、頼に見つめられながら泣いた。
ごめんね、ありがとう、だいすきだよ。
そう繰り返しながら、ひたすらに泣いたのだ。
(もしもこれが夢じゃないと言うのなら、眠りを捨ててもいいとさえ思った)