ガチャリと扉の開く音に気付き、俺は嵐を撫でていた手を止めた。
規則正しい寝息を溢す嵐は、こめかみを涙でグッショリと濡らし安心しきった表情で眠り込んでいる。

「嵐、寝た?」
「あぁ。かなり落ち着いてきてる。さっき少し話せた」
「意識あったの?」
「夢見てると思い込んでたみてぇだけどな」

嵐の部屋から彼を連れ出した俺は、その足で自分の部屋へ運んで保険医を呼んだ。
こういう事に慣れているらしい保険医曰く、嵐は強めの向精神薬の類いを短いスパンで摂取しているようで、しかし短期間だから時間経過と共に効能が切れれば特に問題ないとの事だった。

更に幸か不幸か、嵐は口にしたものを戻していたから、暫く休めば意識もはっきりするらしい。その代わり、軽い栄養失調になりかけてたみたいだけど。

そう言われた俺と朔が床に崩れ落ちて安堵の息を吐いたのは、今日の午前中の事だった。

「とりあえず、これね。言われたものを寮監からもらってきたよ」
「わりぃな」
「別に、頼の為じゃないから。嵐の為だから。ところでいつまでそうやって独り占めしてんの?強姦魔の相原頼君」

朔は俺に対しての怒りをまだまだ募らせているようだ。
言われて当然の事をしたのだから反論はしないが、嵐を抱いて寝る役目を朔に譲る事はしなかった。

でももうそろそろ時間がやってくる。
俺は嵐に謝る前にやらなければならない事が山積みだった。

ーーあの部屋で何があったのか、なんて。そんなの一目瞭然だった。

何故か施錠されていない部屋に足を踏み込んだ俺は、リビングに姿のない嵐を探して寝室に入って、そこで惨状を見た。

そして物音に気付いてトイレに向かい、中で一心不乱に吐く背中を見つけた時の怒りは、筆舌しがたいものがあった。

出すものなんて殆どないのか、しきりにえずいて、それでも指を喉に突っ込んで、苦しそうに肩を上下させて。
俺に気付いた後の暴れようは痛々しかった。
俺の声がわからないくらい、俺の事がわからないくらい、嵐は精神を壊していた。

声が出ないと知った瞬間、そしてそれを俺の言葉のせいだと嵐が言った瞬間、俺は俺を世界で一番醜い男だと思った。

大きすぎる罪悪感と、俺の言葉一つで声を無くしてしまう程嵐の中で俺の存在が大きかったと知り、ほの暗い喜びを感じていた。

しかし、その謝罪だって、全部後回しだ。

「朔」
「なに?」
「少し部屋を空けるから、嵐の事頼んだぞ」

言いながら起き上がり、嵐の枕になっていた腕を抜き取った。
少し痺れた腕。それが愛おしく思えるのは、この存在の為だからに他ならない。

「間違っても頼が処分されるとか、やめてくれよ」
「アホ。そんなヘマするかよ」
「どうだか。頼を裁くのは嵐なんだからね」
「…わかってる」

きゅ、と弱々しく俺の服を掴む指先に、身を屈めて口付けた。男らしく筋張った指だ。けれど嵐のそれは、俺よりもずっと器用で細い。骨格が細身なせいもあるのだろう。
服の下の腰の細さは特に頼りない。

「起きた時には全部終わらせておくから」

緩く波打つ赤い髪を撫でてから、嵐が掴んだままのシャツをそっと脱いだ。
そうすれば幸せそうにそのシャツを胸に抱く嵐への気持ちを、なんて言葉で表せばいいかわからない。

「…嵐、行ってきます」

どうか、お前の代わりにお前を蹂躙した奴を裁く俺を許してはくれないだろうか。
その後になら、俺はどうなったって構わないから。

+++

嵐を朔に任せ、俺は嵐の部屋へと向かった。
寝室の掃除をして、汚されたシーツを全て処分する。そして手頃な鞄に嵐の荷物を詰め込み、学校用品とまとめてソファに置いた。

「…胸糞わりぃな」

ゴミ箱の中にあった使用済みのゴムと、食べかけの焼き菓子を袋のまま持ち出せるようにしておいた。
これは有事の際の証拠にするつもりだった。言い逃れさせるつもりは毛頭ないが、公正な書類にできる証拠は残しておいて損はない。その辺りは顔の広い朔にツテがあるようだから、安心して切り札に出来る。

ある程度思い描いていた雑用を済ませれば、後は待つだけだ。

俺は荷物を置いたソファにドサリと陣取り、朔が集めてくれた資料に一枚一枚目を通していく。
それは監視カメラの映像をプリントしたものと、全校生徒のプロフィールを一覧にしたものだ。
普段は言わなければ仕事をしない朔も今回ばかりは自主的に動く気満々らしく、カメラの映像も一覧もかなり絞ったものだけが手元にあった。

「…逃げる気は更々なさそうだな」

その中の一人。一年先輩に当たる男の名前が、赤のペンでぐるぐると囲まれている。
昨日一日と今日俺が嵐の部屋へ行くまでの間、幾度となく二年生の階であるこのフロアのカメラに姿を映し、更に強めの向精神薬という一般人は手に入れにくい薬を使う、その男。

名前は佐田幸輔。
ーー地方の大学病院院長の息子だった。

パタリ。扉の開く音がして、俺は自分を落ち着けるようにゆっくりと深呼吸した。
立ち上がり、リビングの扉を向く。

そこには予想通り、好青年の笑顔を浮かべた佐田が立っていた。

「やぁ。こんにちは、相原生徒会長」
「どうも、佐田幸輔先輩」

馴れ馴れしく片手を上げた佐田は、俺が居た事に微塵も動揺する事なく持っていた袋を掲げて見せた。

「怖い顔だ。お菓子はいかが?」
「向精神薬入りの、か?」
「すごいね。そこまでちゃんと調べられたんだ。保険医に泣きついたのかな?」
「目的はなんだ」
「あらら、とりつく島もないね。もう少しお喋りを楽しもうよーーこの、泥棒猫野郎」

心の底から俺を憎む視線だった。声は低く、寒気がする程無感情だ。

俺はわざと笑みを浮かべ、ソファの背に腰かける。
佐田はリビングの入り口に立ったまま、持っていた袋を丸めて俺に投げ付けた。

「ヒーロー気取りはやめなよ。全部全部、お前のせいだよ?」

ビニールの乾いた音と共に、それが俺の肩に当たって床に広がる。飛び出した中身はいくつかのクッキーだった。

「お前なんかよりずっとずっと前から、俺はあの子が好きだったんだ。でも、穏やかに笑ってる姿が見られれば満足だった。あの子は馬鹿だ、お前みたいな根暗を好きになるなんて」
「あながち間違ってねぇな」
「頭はいいけど友達も居ない、顔はいいけど愛想がない。お前は見た目だけのクズだろ。それなのに、クズのくせに、あの子を一人ぼっちにしただろう…!」

佐田は静かに怒りを迸らせていた。
握った拳がふるふると震えている。俺は、それを黙って腕を組んだまま見ていた。

「恋をするあの子は、嵐は、可愛かった。見ているだけで幸せだった。なのにお前は、あの子を傷付けて、一人にして」
「そうだな」
「あの笑顔が見られるならお前みたいなクズでも我慢してやるつもりだったのに!汚して捨てた!一人でぼんやりしてる嵐に、笑顔なんてなかった!」
「…そこまで好きなら、なんで他人に抱かせたんだ。あんたが付けこめばよかったじゃねぇか」

俺の問いに、佐田はうっとりと笑顔を見せた。
笑ったり怒ったりおどけたり、忙しい男だ。向精神薬はもしかしたら不正入手ではなく、この男自身に処方されたものかもしれない。
そんな風に冷静に分析していないと、目の前の男を殴り殺してしまいそうだった。

「そんな普通のやり方じゃ、嵐の中にはお前が残るだろ?だってあの子は、他人が思うよりずっと一途だ。何もかもがどうでもよくなった時、傍に居るのが俺だけでないといけない。そうでないとあの子は振り向いてくれない」
「だからって、他人に抱かせて何とも思わねぇのかよ」
「思わないよ。あいつらを人だと思ってないからね。もう処分は済んでるし」
「なんだと…?」
「俺の嵐にした事と、同じ目に合ってもらっただけだよ。どうしてそんなに怖い顔をしてるの?」

向精神薬、こいつに処方されたものと見て間違いなさそうだ。
他に被害者が居ないかの洗いだしやら何やら、やる事が増えてしまったが一先ず嫌な事に蓋をする。

「佐田。お前の事は生徒会の手に余る。然るべき場所で然るべき対処をさせてもらう」
「別にいいよ。嵐はもうお前の事がわからなくなってるはずだから。いつか、また、俺が迎えに来る」
「それはどうだろうな」

嬉しそうな男を放って、荷物を持つ。この分だと胸糞悪い証拠を持ち歩く必要はなさそうだから、縛った袋をシーツのごみ袋の傍に投げた。

けらけら。男が笑う。
わざわざ薬入りのお菓子を作って嵐に与えていたのだから、その分自分の飲む薬が足りないのだろう。見た目だけは好青年なのに、目は俺じゃないどこかを見つめていた。

「なに、負け惜しみ?無理だよ、あの薬は正しく使わないと麻薬とほぼ変わらないんだ。強い薬なんだ。嵐はもう依存しているよ。俺を欲しがるよ」

男の隣をすり抜けて、玄関へ向かいながら、片手間に男を処分してくれる人に連絡を入れる。
無人のリビングに向けて話しかける佐田は、笑いながらその場に座り込んだ。

「…そう思いたいなら、勝手に思ってろ」

殆どその薬入り菓子を吐いていた事を、教えてやる義理などない。
俺は一人嵐の部屋を出て、足早に自分の部屋へと駆けた。

わかった事が一つある。

嵐の身に起きた苦しみと痛みは、全て俺が原因だったって事だ。
朔に気持ちを告げる事が出来た嵐の為だと、必死になって遠ざけようとした結果が、これだったのだ。勘違いで引き起こした悪夢だった。

(死んで償えるなら、そうするべきだ)

わかっている。それは武士の時代でしか通用しない裁きだ。
俺一人の命でどうにかなるものなんて、たかが知れていた。罪悪感に終止符を打つのはただ逃げているだけだ。

それなら、俺は嵐の為に何が出来るだろうか。
自室の扉を目指す最中、俺はずっとそんな事を考えていた。

(お前が頷いてくれるのであれば、俺は俺の持つ全てのものを生涯捧げ続けるのに)