とてつもなく心地良いところで、俺は目を覚ました。

スッキリとした視界には書きかけの書類が映って、右手はペンを持ったまま。

「やば、寝てたー…」

ギリギリ垂れていない涎を腕で拭い、身体を起こす。
すると大袈裟な溜め息が聞こえてきて、俺はさーっと顔を青ざめさせた。

「すっげぇイビキだったけど?」
「もう地鳴りだよ。いつ地震がくるかとヒヤヒヤしちゃった」
「嘘!?俺そんな騒音なの!?」

両手で顔を挟んで悲鳴を上げると、頼と朔は失礼な程下品に笑い声を響かせた。

「まぁ嘘だけど」
「居眠りなんかするからだよ。はい嵐、追加の仕事」
「勘弁してくださいー…」

嫌がる振りをしていたけど、俺は涙が出そうな程嬉しかった。
どんだけの量でも構わないよ。仕事、いくらでも頑張るよ。
そこに頼が居るなら。朔が居るなら。二人が笑って傍にいてくれるなら、いくらでも。

なんて綺麗な夢だろう。

出来たら次に見る夢も、こんな風に暖かくて優しい夢だったらいい。
ゆっくりと揺らいで霞んでいく二人を見て、俺はそう祈っていた。

+++

唐突に浮かんだ意識は、オレンジ色の薄暗い場所へ俺を投げ出した。
今度はどんな夢だろうか。それとも、現実だろうか。

やけに暖かく、柔らかいものに俺は包まれていた。
相変わらず頭はぼんやりしていたけれど、何故か幸福感に溢れていたから、これは夢のターンだと確信する。

蜃気楼のように安定しない視界の中で、蒼い何かが煌めいた。
それは徐々に間接照明のオレンジを蓄え、俺を捉える。

ほら、やっぱり夢だ。
だって、頼が俺を抱き締めているなんて、現実では二度とない事なのだから。

「…目、覚めたのか」

今まで聞いた事のない、優しく甘い声だった。
俺の背中に回った手が、しっかりと俺を引き寄せ抱え込む。
すぐそばにまで近付いた碧眼はやはり透き通っていて、いつもみたいに見惚れてしまった。

「痛いとことか、ねぇか」

労るように手のひらで背中を叩かれて、うっとりと目を閉じる。けれど頼を見れないのが嫌で、また瞼を抉じ開けた。

「寒くねぇか」

この夢の頼は、随分と過保護なようだった。
ポツポツと溢す問い掛けが可笑しくて、思わず笑ってしまう。夢は願望だとよく言うから、これは俺の願望なんだろう。まさかとは思うけど、面白さは確かに満足だ。

「…?どうした?」
「痛く、ないし、寒くない、よ?」
「…っ声、出んのか」

今にも泣き出しそうに顔を歪めた頼は、耐えているのか長い溜め息を吐いた。
その息が額にかかり、ふわりと前髪を揺らす。そのまま抱き寄せられれば、俺の頭はスッポリと頼の首もとに埋まった。

「そりゃあ、夢だもん…それに今は、…頼、怒らないでしょー…?」

すり寄れば、後頭部にあった手が動きを止めた。
そして強く首もとへ押し付けられる。甘い息苦しさが、俺の胸を締め付けた。

「俺が怒ったから、声が出なかった、のか?」
「頼じゃないよ、あっちの頼」
「あっち…?」
「そう。現実の、頼は…吐き気、するって怒ってたから」

頬に触れる頼の皮膚から、早くなった鼓動が伝わってきた。弱々しくて、確かな振動。頼の心臓の音を感じるのは初めてだったけど、どんな流行りの歌よりも俺の心を掴んで離さないリズムだった。

「…怒って、ねぇよ」
「気にしなくっていー、よ。頼の事じゃないから」

夢と現実を混同する程、俺は馬鹿じゃない。
だから今は、この夢に浸っていたかった。

そろりと腕を動かして、頼の背中に回す。
ぎゅっと抱き締めたのは、まだ褪めないでと言えない代わりだった。

「ごめんね、頼」

夢に逃げてると言われればそれまでだ。身も心も汚い俺は、そう頭でわかっていても、今しか言えないと口を開く。

「謝る事なんて一つもねぇだろ…?」
「ううん、たくさんあるんだ。…あのね、頼」

ぎゅう、と頼にすり寄って、籠った息を吐き出した。

「嘘ついてて、ごめんね」

頼は無言で俺の頭を撫でた。

「慣れてる、とか…嘘だよ。本当は…頼を少しでも分けてほしくって、あんな嘘ついて…嫌だったよね、目隠しも、腕縛るのも」

好きな人がもらうはずの頼を、先に俺が抱いてしまった罪悪感はいつまで経っても消えてくれない。
多分、この先も消える事はないのだろう。友達の距離で満足出来なかった欲深い俺の罪だ。

「それにね、頼が苦しんでるのわかってて、俺背中を押せなかった。…一度近くにいる気持ち良さを知って、そしたら手離せなくなって」
「もう、いい」
「いくないんだよ。頼が好きな人とうまくいったの、喜んであげなきゃならないのに、俺、ホント、だめで…っ」

大好きな朔を、憎く思ってしまっていた。この間までそうして隣で笑っていたのは俺なのにって。
そんな自分が嫌で、気持ち悪くて、余計嫌いになった。

「ごめんねって、頼大好きだよって、ちゃんと言えてればこんな風に、ならなかったのかなぁ…っ」

今でも三人で、くだらない話をして騒げていただろうか。
たらればばかりが浮かんでやるせない。後悔とはその字の通り、後にならなければ悔やめないのだ。

「もー、ね、頼とした時の事とか、あんま、思い出せなくって、知らない奴にばっか触られた感触しか、なくって」
「わかった、もういいから」
「頼が消えちゃうよ、やだよ、もうそれくらいしか俺にはないのに…!」

つん、と鼻の奥が痛んだ時にはもう遅くて、俺の涙が頼の首筋を流れていった。

お願いだからこれ以上勝手に流れていかないでほしい。俺の中から溢れるその水の中には、きっと頼の記憶が紛れ込んでいる。
少ししかないそれは、俺の大切な想い出なのに。

「ご、めんね、頼、大好きだよ、ずっとずっと好きだったんだよ」
「…っ、あぁ」
「まだね、これからも好きだよ、ごめんね、ごめんね…っ」

心の奥底にへばりついた恋心は、いくら剥がそうとしてもそこを動かなかった。
頼の恋がうまくいったって、距離を置いたって、知らない奴に抱かれてしまっても、俺は頼が好きだった。

ぐずぐずと鼻をすすって、無理矢理顔を上げた。
頼はじっと俺を見下ろしていたけれど、近すぎてその顔がぼやけている。瞬きして涙を落としても、次から次へと溢れてくる邪魔物のせいで、どんな表情をしているのかはわからなかった。

「また、いつか…」
「何?」
「頼に、名前で呼んで、ほしーなぁ」

あらし、とあの声で呼ばれたかった。
汚れた身体は元には戻らないけれど、たったそれだけで、俺は自分の事を少し好きになれるんじゃないかと思った。

「て、頼に言っても仕方ない、よねー…」
「なんでだよ、俺でいいじゃねぇか」
「ん、俺ね、あっちの頼に、すごく嫌われちゃ、っ、…った、みたい、で」

だめだ。自分で言って泣いてりゃあ世話ない。
ひきつる喉を自覚して口を閉じる。しゃくり上げる度無様な泣き声が耳に届いた。

「…嫌ってねぇよ」
「ぅ、っく、ふ…っ」
「俺がお前嫌いになる訳、ねぇだろ、アホ」
「頼ぃ…っ」
「お前が好きで、堪んなくて…すっげぇ、大切にしたいのに」

夢の中の頼は、俺の欲しい言葉を惜しげもなく与えてくれた。
止まらない涙を拭っていく指は、かさついてて少し痛かった。

「ちゃんと目が覚めたら、俺に謝らせてほしい。嘘をついた事、誤解してた事、守ってやれなかった事、傷つけた事…それと、それでもお前が好きな事。許してくれるなら、それから、たくさん名前を呼ぶから、傍に居てほしい」

いくら夢だからって、都合のいい妄想をし過ぎだなと自分に呆れてしまうけれど、夢ならいいよねと俺は頷いた。
この胸に宿った暖かさは、目が覚めた後も続いていてくれないだろうか。

起きた時、俺はちゃんとこの夢を覚えていられるのだろうか。それだけが不安で、心許なかった。

「夢、褪めなきゃ、いーのになぁ」
「早く醒めてくれねぇと、困る」
「やぁだ、よー。だって、起きたらまた、」

そこから先は口にしたくなくて、俺は曖昧な笑みを浮かべた。
その代わりに頼の顔に手を伸ばし、あの日諦めた夢を叶えるべく額にかかる髪を避けた。

「いー夢…このまま、消えちゃいたいな…」
「夢じゃ、ねぇよ…!」

ゆっくりと閉じゆく視界の中で、キラリと蒼から滴が零れた。
夢よどうか褪めないで。眠ったままの俺が息を止めるまで、ぬるま湯のように風邪を引かせてほしい。

「ーーー」

幻聴は優しく鼓膜を震わせ、溶けていく俺の意識に寄り添った。

(唇に押しあてられた何かが、そっと動いて言葉を三文字呟いた)