冷たい空気の満ちた部屋は、溜め息を白く染めて霧散させた。

開けた視界に射し込んだ朝陽の筋が綺麗に映る。
カーテンの外はきっと、とても眩しい太陽を覗かせ、冬の朝を清々しく彩っているはずだ。

は、と息をついた。
声を出そうとしても、声帯が役目を忘れたかのように二酸化炭素が排出されるばかりだった。

寒くて、眩しくて、あまりにも美しい朝は、

俺の中の頼を無理矢理引き出して、明るい世界へと連れ去っていった。

***

人気のない早朝の寮を、俺は亀のような足取りで機械的に進んでいた。
目が覚めた時、当たり前だけど頼は居なくて、俺は一人仮眠室のベッドで寝かされていた。熱が出た日頼と共に寝た場所に、一人きりで。

それを寂しいなと思うのはあまりに烏滸がましくて、辛いと思うのはとてもとても我が儘だった。

「…っ…」

一歩、また一歩。
踏み出す度に身体が痛む。
どこが痛いのかわからないという事はつまり、どこもかしこも痛いのだ。

これだけの痛みを身に受けたのだから、俺への罰が少し終わったという事にはならないだろうか。
ならないんだろうなぁ。
俺には諦めるしか、自我を保つ方法はないように思えた。

頼は、何に怒っていたんだろう。
初めて彼を怖いと思った。いや、俺が怖かったのは何に対してなのか、はっきりしない。

目隠しをされて以降の記憶が混濁している。
頼と、あの男達。そのどちらに抱かれているのか、区別がつかなかった。

絶望した。俺は、あれだけ頼を好きだと言いながら、名も知らぬ男と彼を勝手に重ねて怯えたのだ。
その瞬間、好きだと思う資格すらも失ったと思った。

それなのに、綺麗に後始末された身体に喜んでしまうくらい、俺は未だに頼を想ってしまっていたけれど。

「飯田君」
「…?」

部屋の扉が見えた辺りで、俺は呼び掛けに立ち止まった。
振り返ると男が笑顔で立っていた。誠実そうな顔立ちには何も感じない。頼に嫌われた今、その他を気にかける程心の余裕がなかったからだ。

だから黙って背を向けた。
男は着いてくる。それは部屋の鍵を開けて、中に入っても変わらなかった。

「ねぇ、飯田君」

リビングを通過して、寝室に入る。男に返す言葉はないから、無視したままベッドに潜り込んだ。

何も考えずに、ただ眠りたかった。現実は痛かった。身体も心も。逃げたかった。夢の中に。
せめて、身体の痛みが癒えるまでだけでも。

「何も言わないの?」

目を閉じた。話しかけないでほしかったけど、そう伝える術がなかった。
頭に残る、頼の声。その綺麗な音は苦しそうに、名前を呼ぶなと言っていた。だから、頼の名前すら呼べない俺には、声はいらないものだ。

「気付いてるんだろ?俺のせいだって」

重い腕を動かして、両耳を強く押さえた。
男の声がほんの少しだけ遠ざかる。それに安堵したのと、腕をとられて両肩をシーツに押し付けられたのは同時だった。

「何も言わないんだね」

男の目は寂しそうに俺を見下ろしていた。そこには哀れみも含まれているように思えた。同情されている、のだろうか。よくわからない。男の瞳は俺に理解出来ない色をしていたから。

「どうして食堂を出たの」

眉を寄せた男は、苦しそうな声で言った。肩を押さえていた手が馴れ馴れしく俺の頭を撫でる。
やめてほしくて首を振って手から逃れると、男は更に苦しそうに顔を歪めた。胡散臭い、完璧な心配顔を見てそう思ってしまう俺は、何を信じればいいのかもわかっていなかった。

「ごめんね、飯田君。こんな目に合わせるはずじゃなかったんだ」
「、…、?」
「…声、出ないの?」

何が言いたいの、と動かした唇を見て、男は泣きそうに笑って見せた。潤んだ瞳は庇護欲を誘う。頷けばその笑みは深くなった。

「そう。そうか。君は傷ついたんだね」
「…」
「俺、脅されたんだ。あいつらに。自分を守る為に、君に薬を盛った。けど、飯田君を守りたかった。だからすぐに切れる薬にして、食堂で、人目のある所で寝るように仕向けたのに」

どうして食堂を出て行ったりなんかしたの。俺が戻って来るまで待っていてくれなかったの。

男は片手で顔を覆って、掠れた声を吐き出した。苦しそうだ。許して、と言われている気がした。
けれど俺は、口がきけたなら迷わず、だからなぁに?と言っていただろう。

「だからこれからは…俺が飯田君を助けてあげるからね」

手を退かせた男は、仰々しく爽やかな笑顔を浮かべていた。瞳が濁っている。馬鹿馬鹿しくなった。それはどう見ても自分をヒーローと勘違いした、酔いしれる瞳だった。

「知っているよ。相原には捨てられてしまったんだろ?神田川に盗られてしまったんだろう?酷い奴らだね、可哀想な嵐、可哀想、一人ぼっちで可哀想」

俺の友人を見下げて笑う男が、あまりにも気持ち悪かった。
男は鼻唄でも歌い出しそうなほど上機嫌に、ポケットから包みを取り出す。それは丁寧にラップに包まれたお菓子のようだった。

「可哀想、可哀想、助けを呼んだのに、来てはくれなかったんだね。でももう可哀想じゃないよ。俺が居るからね」

スラスラと、さっきの表情も声も全て偽りだったと言わんばかりに男は雑音を吐き出した。
手に持つお菓子を俺の唇に当て、もう片方の手で無理矢理そこをこじ開ける。

「…っ」
「大丈夫、心配ないよ、可哀想な飯田君。本当に可哀想…もう、呼びたくても声が出ないなんて、なんてお誂え向きな状況なんだろう」
「っ、…!」

喉奥へと強引に押しやられた塊を、身体が勝手に噛み砕いて飲み込んだ。正常な判断だ。窒息させる気かと、背筋が寒くなった。

俺はバタバタと暴れて男を落とそうとするけれど、腹の上に跨がれて身動きが出来なくなった。
少しの痛みと、それから少し遅れて身体の中心からこそげ落ちるように力が抜けていったのだ。
頭がぼんやりして、見開いていた瞼はゆるりと落ちていく。

「早く俺のところへおいで。相原みたいなロクデナシの顔だけ男なんて忘れて、俺のところに。ここは暖かくて気持ちよくて、嵐を二度と傷つけないから」

嬉しそうな男の手にあるものは、鋭利な針先を朝陽に反射させて輝いていた。
体内に何を入れられたのか、何を食べさせられたのか、俺には知る術も考える頭も残っていなかった。

ぼんやり、ぼんやり。
ぐにゃりと歪んで混ざっていくマーブル状の視界が気色悪くて目を閉じると、寝室の扉が開く音がした。

「よーっす。飯田は?」
「あぁうん、ここ。今日は一人なんだ?」
「あいつね、学外の女の機嫌取り。やるよね全く、飯田レイプした次の日女に会えちゃうんだから」

げらげらと笑う男の声は、昨夜空き教室で聞いたものだった。
途端、俺は可笑しくて可笑しくて、笑い出しそうになった。思っただけで、声も動きも描くばかりだけれど。

「今夜帰ったら来るってさ。で、やっていいんだろ?」
「いいよ、好きにして。二時間位経ったら来るから、それまでには帰っておいて」
「了解」

腹の上から男が動き、居なくなった。
代わりに昨夜の男の一人が近付いてくる気配。

なにが、助けてあげる、だ。
例え声が出ても、動けても、俺はこの男に助けは乞わないだろう。
頼にさえ助けてと言えなかった俺が、頭のおかしい男にそんな懇願する訳がない。

「飯田、今日もよろしくな?」

服にかかる手を感じ、俺はうっすらと笑みを浮かべていたと思う。

『すげぇな嵐の髪。雪の中に赤い花が咲いてるみてぇ』

目尻に寄ったシワは、寒さで少し赤くなっていた。
蒼い瞳を細めてクシャリと笑った頼の言葉を、俺は今もその日の感情と共に全て覚えている。

もしも俺が雪の中で咲くただの花だったとしたら、こんな風に頼に触れる事は叶わなかっただろう。
それでも、花であればこんな気持ちに苛まれる事も、なかったのだろう。

綺麗な人。散るまでは俺の事を、時々でいいからその蒼に映してほしいな。
そう仄かに恋を暖めて、散っていけたらよかった。

ただ受け入れていれば、俺はそんな花のようになれるだろうか。
そうすれば、きっと。

(助けて、助けて、頼、助けてよと)
(繰り返し唇を動かして泣く事も、なかったんだろうか )