目覚めがスッキリしているのは、久しぶりだった。
昨夜朔の胸で大泣きしたせいで目は腫れぼったいし頭も重いけど、その分気持ちが浮わついている。

ぐるんぐるん考えすぎて八方塞がりになっていたものが、綺麗に整理されたみたいだ。
頼が俺をどう思っていて、俺の言葉にどんな感情を抱くのかはわからない。けど、それ全部引っくるめて受け入れようと思えた。結末がどうであれ、俺がしなければならない事は嘘への謝罪と本当の気持ちを伝える事だ。

「うっし!生徒会室行こ!」

いつもよりちょっと遅い時間に目覚めてしまったから、もう頼と朔は仕事を始めているかもしれない。
とは言っても、急ぎの仕事なんてそんなにないから、話してたり宿題してる時間も多いんだけど。

「目ー冷やして、頭セットしてー…あ、ヘアピン紛失なうだった」

眼鏡型のアイスマスクを装着したまま洗面所で支度をしていた俺は、いつも付けているヘアピンが一本足りないのを思い出した。
昨夜帰宅して外した時には既になかった。最後に見たのは朝付けた時だから、とりあえず昨日どこかで落としたんだろう。

「ま、今日は結っとこ。昨日歩いたとこを歩けば見つかるだろうしねー理論的には」

鏡の中の俺はニコニコしている。緑色の眼鏡アイスアイマスクがかなり間抜けだけど。

手早く跳ねる髪を一纏めに結び、服を着替えて準備をする。最後に、いくら冷やしても赤みが消えなかった眼を隠すため、黒縁眼鏡をオン。
これは夏休み朔と出掛けた時ノリで買ったものだけど、頼がやめとけやめとけ煩いからお蔵入りになっていたのだ。
朔はめちゃめちゃ笑いながら似合ってるって言ってくれたけど。俺は天然朔よりしっかり頼のセンスを信じてるから。

「ん、ちょっと誤魔化せる…かな…?」

ぱん、と頬を叩いた手のひらを開き、俺は笑った。
今日は、ちゃんと頼にこの恋を返そうって決めていたから。

+++

生徒会室に向かう途中、背後からポンと肩を叩かれた俺は右側へ首を回す。

ふに、と頬を突く長い指。
思わず半目で睨み付ける先には、ニヤニヤした朔が居た。

「おはよ嵐。似合ってるよ眼鏡」
「おはー。うぜ、指うぜ、朔うぜ」
「可愛いね。これで告白すれば頼も一発だよ」
「いいい意味わかんないから!って、朔寝坊したの?」

昨夜のからかいがまだ残っている朔を小突き、問いかける。
どこか眠そうな目で笑った朔は、大きくうなずいてパカリと口を開けた。

「あは、なんか青春の一ページに関わっちゃったなって思ったら、コクリコ坂が見たくなったんだ」
「ジブリ厨乙ー」
「この魅力がわからないなんて嵐はアホだね」
「アホ言うな!それ頼の専売特許だから!」

バシバシ背中や肩を叩き合っている内に、俺たちは生徒会室に辿り着いた。
他の教室よりちょっと豪華な装飾。その扉を開けば、ど真ん中の会長席には俺の好きな人が座っている。

「より、おはよー!」
「おはよう頼。遅くなってごめんね」

二人して明るく声をかける。
すると頼は俯いていた顔を上げて、おうと片手を上げ応えた。

「はよ。二人共遅すぎ。揃って寝坊かよ」
「まぁまぁいいじゃない。嵐の眼鏡姿で許してよ」
「朔、意味わかんない…」

朔は背後から俺の両肩を押し、グイグイと頼のデスクの前へやる。
頼はカクンと首を傾げ、それからふっと微笑んだ。

「仕方ねぇな。似合ってるから許してやるよ」
「え」
「何、褒めたのに不満か?」
「いや、前頼やめとけって言ってたから…」

思っていた反応と違うものが返ってきて、俺はつい目を丸くする。
そんな俺を、頼は軽く笑い飛ばした。

「そんな事言ったっけ。覚えてねぇわ」
「そ、そう…」
「そんな事より朔、来てすぐで悪ぃけど行くぞ。他校の学園長が来てっから挨拶」
「え、面倒くさい…」
「黙れアホ」

すい、と俺から視線を外した頼は、立ち上がって朔の肩を叩いた。
すぐ隣に立っている俺には目もくれなくて、何となく違和感を覚えた。

「嵐、俺の代わりに行ってきて」
「え」
「アホか。副会長は朔だろ。こいつじゃ無理」

溜め息を吐いた頼が、俺の肩を掴む朔の二の腕を取る。
そしてそのまま動こうとするから、俺は無意識に頼へと手を伸ばした。

「待って頼、あのね」

指先が頼の服を掠めた。
けれどーー身体を捻った頼の体温には、ついぞ触れる事はなかった。

「そうだ。お前昨日ヘアピン忘れてただろ。後で部屋に取りに来いよ。今日は帰ってていいから」

今、避けた?

まさか、と呆然とする俺を横目に見て、頼は朔を引きずって生徒会室を出て行った。

残された俺は、閉じた扉を見つめて漸く違和感に気付く。

「…頼」

朔にすら触らせるなと言っていたのに、さっき頼は何も言わなかった。

この部屋に入ってきてから、俺は、一度も頼に名前で呼ばれなかった。

「どういう意味…?」

開いた手のひらに問いかけてみても、そこはサラリと乾いたままだ。
胸の中がざわついて、不安が巣食っていく。

「気のせい、だよね?」

出鼻を挫かれたような気分になった俺は、ぎゅっと手のひらを握り締めた。
そこにある頼の恋が溢れてしまわないように。
重ねた俺の恋が、焦げ付いてしまわないように。

+++

頼に言われた通り部屋でぼーっとしていた俺は、夕方になってから部屋を出た。
向かうは頼の部屋。この時間なら帰っているだろう。

ぼーっとしている間に、腹はくくっておいた。
何があっても動揺しない。今の俺は鉄壁の精神を持っているはずだ。

忘れ物を受け取って、話を聞いてもらう。
思い立ったが吉日って訳ではないけれど、アホな俺でも、これが最後のチャンスなんだろうと、わかっていた。

ピンポーン。
チャイムを鳴らし、じっと待つ。
暫くして中から声が聞こえ、俺はホッと息を吐いた。

よかった。頼居た。
開いた扉から見えた男の表情もいつも通りで、俺は無意識の内に笑っていた。

「頼、お疲れー」
「あぁ。ヘアピンな。はい」
「ありがとー」

差し出した手に、ポロリと落とされたお気に入りのヘアピン。握り締めると端がささって少し痛い。

「眼鏡、外したのかよ」
「うん。覚えてないのかもしんないけど、頼がやめとけって言ったから」
「そう。朔は喜んでたじゃねぇか。してやれよ」
「…?何で朔?」

頼は俺の問いに答えず、扉の取っ手に手をかける。
閉める気だ、と察した俺は、慌てて取っ手を掴む頼の手を握った。

「何?忙しいから離せ」
「あ、と、ごめん。少しだけ話したい、んだけど…」
「仕事の話?」

びくりと肩が跳ねる。
俺を見る頼の視線は冷たく、感情は感じられなかった。

「違う、けど…」
「じゃあ明日にしろ。まだやる事あっから」
「待…っ、頼が預けてくれたもの、返しに来たんだ!」

叫ぶように吐けば、頼は動きを止めた。そして俺を見下ろす。蒼い瞳はどこか氷のようだった。

「嘘つけ」
「え?ごめん、頼今なんて…」

小さな声だった。
頼は吐息のように何かを呟き、じっと俺を見つめ続ける。

たくさん嘘をついてごめん。
俺は頼が好きだよ。
頼の預けてくれた恋、俺のものにしてもいいかな。

そう言う為にここに来たのに、俺は縫われたように唇を動かせないでいた。
代わりに頼が口を開く。
聞くな、という心の叫びを、俺は裏切った。

「それ、もういらねぇから」

は、と頼は笑う。

「わざわざ悪かったな、付き合わせて。お前が練習させてくれたから、うまい事いった。サンキュ」

そしてそっと、俺の手から逃れていった。

「お前も頑張れよ。好きな奴とうまくいくように、応援してっから」

ーーそうか。俺の勘違いだったのか。

あの日体育館の二階で俺に預けられた恋は、練習用の予備だったんだろう。
思い上がりも甚だしい。大切に握っていたものは、代替え品だったんだ。
俺は頼の好きな人の身代わりだったのだから、渡されるものも偽物なのは当たり前、なのだ。

俺は心の中の不安が消え、優しく凪いでいくのを感じていた。

頼は好きな人とうまくいった。それが俺じゃなくて残念だなぁって思うけど、そんなの最初からわかってた事だ。
強く握り締めたヘアピンの端が手の平に食い込んでいる。俺の感じた痛みは、きっとそれのせいだろう。

「そっかぁ、よかったね」
「あぁ」
「俺も頑張るよー!頼に置いてかれるとか絶っっ対やだー」
「どういう意味だコラ」

はは、と笑い合って、俺は一歩下がった。
透き通る金色の髪と、綺麗な蒼い瞳。
いつも通りの頼がそこに居て、上手に友達に戻りたいななんて。

「じゃあね」
「じゃあな」

いつものように、また明日とは言えなかった。

頼が幸せならば、俺は全力で頑張ろうじゃないか。
捨ててしまおう。頼に渡せない恋心など、この世で一番不必要なものなのだから。
そうして、必死に、この想いをなかった事にしてみせる。

「……」

唇だけで紡いだ愛しい名前は、誰に見咎められる事もなかった。
閉じた扉。次にこの扉をくぐるのは、この恋情が跡形もなく消え去った時だ。

頑張るよ俺。

そう囁いて、踵を返す。
握ったままの代替え品とヘアピンは、まとめて休憩室のゴミ箱へ捨てた。

さよなら、とは言えなかった。

(頑張って頑張って、この恋が真っ白な雪に還ったあかつきには、)
(その時はまた、名前を呼んでくれますか)