くだらない雑誌の豆知識コーナーだった。
朔が持ってきたそれを頼と三人で、ホントくだらないねーなんて言いながら読んでいた。

「唇は愛情なんだって。そりゃそうだね」
「…手の甲は敬愛?あーなるほど、あれだろ、中世のヨーロッパ」
「頼ーなんかその感想馬鹿っぽいー」
「うっせぇアホ」
「ひっど!頼酷いよ!もう俺の足の甲にキスさせちゃる!」
「おいこら、…っやめろ、アホ!」
「うーん、足の甲へのキスは隷属か。嵐、マニアックな性癖でもあるの?頼、服従しちゃうの?」
「違うよ!ないよー!」
「アホ!しねぇよ!」

キスする部位によって意味があるんだねって、そんな、実にくだらない話だった。

あの頃に戻りたいなって思った回数は、きっと片手じゃ足りなくなって漸く、俺は自分のしでかした事に罪悪感を覚えた。

+++

終業式を終えた用済みの体育館は、閑散としていた。

全校生徒を詰め込んだ時はあんなに暑苦しくて狭く感じたのに、今は上靴が床を鳴らすゴムの音すら大きく響き、寒々しい。

帰省する生徒達の点呼をしなければならない頼と朔は、今ごろバタバタと学生証の預かり作業を行っているだろう。
俺は体育館の片付け担当として残ったけど、なんとなくやる気が出なくて壇上に転んだままだった。

「…まだ痛い」

どこがってまぁ、あれだ。お尻が。
昨夜頼の部屋でセックスしたせいで、半日以上経った今もそこはじくじくと痛んでいた。
正直一般生徒と一緒に立っている方が楽だったかもしれない。足がガクガクするかもしんないけど、少なくとも固い椅子の上で硬直するよりマシだ。

なんで役員だけ椅子なの!と叫びたくなったのは一度や二度ではない。特別扱いよくない。来期からは役員も立って式典に出るよう、嘆願書を出そうとは思った。

セックスに関する知識も経験もヒヨっ子な俺は、最近は自室の風呂である程度後ろを広げてから頼の部屋へ向かうようになった。じゃないと毎回流血沙汰だと気付いたからだ。

それでも頼をすんなり入れられる訳じゃないけど、とりあえず頼が痛くなければいい。
上で腰を振るのと、痛みを無視するのには慣れた。

毎度、終わってすぐ逃げるように部屋へ帰るのは、回数を重ねる度に重労働になってきてるけど。

泊まっていけ、ここで寝ろ、そう食い下がる頼は、意外と寂しがり屋なところがあるらしい。
俺を抱き枕にしてもなぁ、と呆れるし、いつも立ち上がるのが大変なくらい後ろが痛いから、出来ればすんなり見送ってくれると嬉しいんだけど。

まぁ、それでも。
触らせろ、と怒られるのは、勘違い出来るからそんなに嫌な気分じゃないんだけど。

「そろそろ片付けるかなー…」

億劫だなぁと思いながら起き上がり、だらだらと壇上の机と無駄にでかい花と花瓶をし舞い込む。まさかのこれ、造花だからね。頼と朔と三人で言葉を失ったのはいい思い出だ。

「んで、あとはー?あ、カーテン」

今日はやけに陽射しが眩しいからと、式の途中で体育館中のカーテンを閉めた事を思い出す。
俺は痛む下半身を一先ずなかった事にして、ずるずる階段を上がっていった。

「おっも」

分厚くて大きいカーテンは、やけに重い。なるべく勢いをつけながらシャッ、と開いて、きちんととめていく。

あと何回これやんなきゃダメなのかなぁってうんざりしていた時、俺とは反対側の中二階からカーテンを引く音が聞こえてきた。
驚いて振り返る。強い陽射しに白く反射したのは、金色の髪の毛だった。

「頼?」
「手伝う。そっちだけやれ」
「う、うん、ありがとー」

いつの間に戻ってきたのかと聞きたかったけれど、俺に割り振られた仕事にあまり付き合わせる訳にはいかない。
そう思い慌ててカーテンを閉めていくけど、軟弱らしい俺の身体はその重労働の前に敗れた。

(いたい、すげーいたい、ありえなーい)

昨晩時間がなくて準備不足だったのは認めるけど、普通そこは若さと愛でカバー出来るもんじゃないんだろうか。
慰め程度に腰を拳で叩き、その場にしゃがみこむ。

「大丈夫かよ」
「あー、うん、ごめん」

頼は向こう側のカーテンを全て開け終えたらしく、小走りで俺の方へやってきた。
ただでさえ忙しい方の仕事をしてきたのに、後片付けまでさせて申し訳ない。

「朔は?」
「帰った。ジブリ見るって」
「ホント、王子様なのは見た目だけだねー…」

朔に憧れる生徒達に、是非とも「バルス!」と叫ぶ朔を見せてやりたくなる。

俺はよいしょっという掛け声と共に立ち上がり、頼に苦笑を向ける。
まだ動きたくないけど、ここに居ても頼に迷惑をかけるばかりだ。

「ごめんね、頼。手伝わせちゃった」
「気にすんな。辛いんだろ、身体」
「え」
「腰。…朝からずっと庇ってる」

ポカンとする俺を、頼が強引に引き寄せた。
慌てて踏ん張ろうと足に力を入れるけど、走った鋭い痛みにギクリとし、抗いきれぬまま。

「…っ」

ぎゅう、と首の後ろと腰に回された腕が、強く俺を抱き締める。
頬をくすぐる金髪からは、頼の匂いがした。

「顔色もあんま良くねぇ。負担かかってんだろ。無理すんな、頼れアホ」
「そ…っ」
「黙ってろアホ」

首裏の手が無理矢理俺の顔を頼の首筋に埋めて、言葉が封じられてしまう。
カッターシャツから覗く肌は暖かくて、トクトクと脈打っていた。

黙ってろ、と言われたから、俺はひたすら口をつぐんでいた。
無理してないよ、と、いつもみたいに言いたくなかったんだ。多分、少し疲れている。

初めは頼の傍に居られればいいと思っていたはずなのに、最近の俺は欲張りになってて、その体温と視線を、もっともっととせがみたくなるのだ。

伝えられない恋が消えるのが先か。
恋を伝えて自滅するのが先、なのか。

どんどん膨らむ愛しさが、現状に警鐘を鳴らしているのは、とっくに気が付いていた。

「なぁ、嵐」

どれくらいそうしていたか、唐突に呼ばれて肩が跳ねた。
頭を押さえられたままだから、声を出さずに僅かだけ頷く。

「…どうして、こうなったんだろうな」

頷く。

「何もかも、うまくいかねぇよ」

頷く。

「一番欲しいもんだけが手に入らねぇ」

頷く。

「どうしたらいい。わかんねぇよ、嵐…」

まるで頼じゃないみたいな、掠れて疲れきった声だった。迷子の子供によく似ていた。心細くて、助けを求めていた。

俺はもう頷けなくて、頼の肩を押して身体を離した。

「……」

口を開く。閉じる。また開いて、それでも、言葉が出てこない。

誰に言われなくても、もうわかっていた。
俺が今告げなければいけないのは、頼の背中を押す言葉だ。
不誠実なこの関係を友人へと完全に戻し、応援してる、フラれたら騒いで忘れよう、だから当たっておいでよと、前に進ませてやらなければならない。

頼はもう誤魔化せなくなってるんだろう。
偽物の、俺じゃ、ダメなんだって。重ねられなくなってるんだ。だからこんなにも、苦しそうな顔をしてる。

「…ご、めん。俺も、わかんないんだ」

それなのに、俺は頼を苦しめる選択肢を選びとった。
あげたくない。頼を、他の誰かに渡したくない。

頼が目を覚まして、自分から俺とのこのおかしな関係を終わらせるまでは、どんな手を使ってでも繋ぎ止めておきたいと、思っていた。

「…そうだな」

頼は一瞬泣きそうな顔で笑い、俺の顔を両手で包み込んだ。
す、と近付く唇。その体温と柔らかさを、俺はまだ知らない。

「ダメだよ」

だから、それだけは知らないままでいようと思った。
無理矢理顔を背ければ、行き場を失った薄い唇が緩い笑みを象る。

そこに触れてみたかったけれど、これ以上この身体が頼を覚えてしまったら、多分俺は立ち直れないだろうから。
せめて友人に戻れる程度には、距離を保っていなければ。

「ひどいやつ」
「そうだね、ごめん」
「…謝んな。ひどいのは、俺だから」
「、より…?」

解放された頬が寒い。

辛そうに眉を寄せた頼は、俺の左手を掬い上げた。
握った拳を開かせ、手のひらが合わさり、指が絡まる。

「…っより」

そして、頼は真っ直ぐに蒼い瞳で俺を射抜いたまま、開いた手のひらの真ん中に口付けた。

ぞわりと走るおかしな感覚。
大きく脈打った心臓は、俺の中で一番の正直者だった。

「嵐、これ、覚えてるか?」
「頼…っ」
「覚えてるよな。ならわかるだろ」
「ちが、違う、それは」
「違わない」

強く言い切った頼は、蒼い瞳を瞼で隠し、もう一度そこに口付けた。

切実に祈る表情は、幻ではなかった。

「…俺の恋は、ここに預けていく」

拾うも捨てるも、お前次第だから。

頼はそう呟いて、立ち尽くす俺の前から去っていった。

「よ、り」

ーー何が本当なんだろう。

懇願の意味を持つらしい手のひらへのキスは、俺に何を伝えたいのだろう。

「そん、なはず、…ない、よね」

頼の恋を預けられた場所に、懇願のキス。
その意味を紐解いて見えてくる真意を、俺は。

(そんなはずないんだ。だって、もしそれが本当なら、俺は一体今までどれだけ、彼を傷付けたんだ)