雪だ、とはしゃいだ背中が遠ざかるのを、俺は呆れた目で見送った。
白いダッフルコートが全速力で駆けていく。嵐の目は子供みたいに輝いて、眩しかった。

ぼふんと背中から積もった雪に倒れこむのを見届けて、自身も寒空の下へと繰り出す。
ザクザクと、足跡を辿って、それで。

嵐の赤い髪が雪の中に散って、濡れていくのを見た。
それは、白い雪の中に咲く花びらみたいだった。

「より、雪ー」

そう言って俺を見上げる微笑みが、いつもよりずっとずっときれいに、見えて。
俺は無意識に携帯を取り出して、目を閉じた男を写真に残した。

ーー好きだって、思ったんだ。

+++

入学式を終えてクラスに行った俺の後ろの席が、飯田嵐だった。
騒がしい室内の中心で笑うあどけない男は、誰とでも言葉を交わせる類いの人間で、人付き合いの下手な自分とは正反対だった。
少し長めの赤い髪にパーマをあて、甘い顔立ちをふにゃりと崩すのが愛嬌に満ちていた。

その出会いから一年経たずに俺はこいつに落とされ、そして片想いはまた、一年を迎えようとしている。

このまま、この想いは誰に知られる事なく、そっとあの日のような雪に溶けていくはずだった。
嵐との友人関係はとても心地が良くて、気持ちを告げて0になるより、何も告げずに1を保つ事を選んだのは、俺だ。

そのはずだったのに、俺は免罪符を手にいれてしまった。

「重くないの?」
「別に。黙ってろ、聞こえねぇ」
「はーい」

開いた足の間に嵐を置いて、後ろから抱き締める。
目線はDVDをかけたテレビに向いているけれど、俺の意識は全て腕の中の男に注がれていた。

テストも終わったし、と嵐を引っ張ってDVDを借りに行ったのはついさっきの事だ。
勉強会を口実に丸一週間嵐を拘束していたが、それも今日で終わり。
今までなら理由なんかなくても嵐を部屋に呼べたのに、今ではこの有り様で。

あの夜、好きな人いる?と問うてきた嵐に何故頷いてしまったのかと、俺は今でも後悔している。
頷いたのならば、お前だと言えばよかったのに。頭ではわかっていても、口は素直になれなかった。口は災いのもととはうまく言った教訓で、きっと、俺が嘯いたから罰が当たったんだろう。

俺の好きな男には、別の好きな男が居た。

息が止まるかと思った。実際暫く呼吸を止めていた。胸が痛くて苦しいのは、精神的なものか物理的なものか、わからなかった。

甘い目を細めて、長い睫毛で頬に影を作った嵐は、心底その誰かを求めていた。
ずっと一緒に居たのに、気づかなかったんだ。
嵐は誰にでも別け隔てなく接するし、ボディタッチが多いから、勘違いして振られた奴に謂れのない噂を流される事が多い。
やれ空き教室でセックスしてただの、保険医と関係があるだの、まぁつまりそんな下世話なものばかり。

それでも俺はずっと一緒に居て、そんな素振りを見た事はないし、まともな嵐の友人達は全くそんな噂を気に留めないし、たかが噂なのはわかっていた。

だから、わからなかった。
受け身の経験がある。慣れてる。そう言った嵐の真意が。

もし、それが本当なら。
もし、それが偽りなら。

わからない。わからないけれど、最後のチャンスかもしれないと思った。
今まで手をこまねいて、見ているだけだったけれど、失恋するとわかっている恋に喘いでいる嵐に、今ならつけこんでしまえると、思ってしまった。

(間違いだった。あの判断は、どう考えても)

俺の思惑とは裏腹に、触れる事も見る事も拒絶された。
俯いたまま部屋を出ていく嵐を、引き留められない立場の自分にようやっと気付いてしまった。

それでも好きな男の中で果てた、俺の汚らわしい事。

戻れない、と漠然と絶望が背後を覆った。
ならば、前を向いているしかないのだ。背水の陣は負ければ即、死に繋がる。

だから、好きな奴とやりたかった事。その免罪符を乱用し、俺は未だ嵐を縛り付けている。
少しでも、一秒でも長く、嵐の頭を占める存在が、俺であるようにと。

あわよくばーー俺に、その心が傾くようにと。

「、より?」

目の前の後頭部に額を預け、スンと髪の匂いを嗅いだ。部屋でシャワーを浴びてからここに来たのだろう。ラベンダーのシャンプーが香る。

「く、くすぐった、い」
「そんだけ?」
「っ、も、頼ー、映画見よ?」
「後でいい」

緊張した体を抱き締め、唇で耳をなぞる。
あれから何度か嵐と身体を重ねたけれど、毎度視界と両手を奪われる俺が、唯一この身体に触れる時間だ。
嵐は人の体温が好きだから。甘えたなこいつは、甘やかすとすり寄って来てくれる。

それは、俺にだけ、ではないけれど。

「ん、もー、頼たん盛ってる?」
「誰が頼たんだ。変な名前つけんなアホ」
「ひゃー!そこでそんな低い声出さないでーやらし!んっ」
「…やらしいのは嵐だろ」

思わずと言った風に手で口を押さえる姿を見て、下半身に血が集まっていく。耳に残る甘えた喘ぎ。ほんの一瞬だったけれど、一方的なセックスではちっとも声を出さない嵐だから余計クるものがあった。

「耳、弱ぇの」
「っ、…っく、ない」
「嘘。びくってしただろ」

腹に回った俺の腕を外そうとする嵐に逆らって、服の下に隠された細い腰を抱き寄せる。思いきり掴めば折れてしまいそうだと思ったのは、最近の事だ。

柔らかい髪に覆われた耳を晒し、がぶりと歯をたてる。
その瞬間大きく震えた嵐に、情欲が灯った。

「なぁ。ちゃんと抱かせろよ」
「は、え?」
「目隠しも拘束もなしで。俺に、ちゃんと触らせろ」

甘えたがりのくせに、セックスは別だと言っていた。
触られるのが大嫌いだと。けれど、耳への軽い愛撫だけでここまで震える敏感な男が、それを嫌いな訳がない。

それなら、俺の手で乱してやりたいし、準備も後始末も全部して、朝まで抱き締めて眠りたい。嵐を想い人から奪う為には、俺を刻み込んでしまわなければならない。

「されてばっかは性に合わねぇ。俺は、好きな奴に乗りたいタイプなんだけど。優しくして、もうやだって言われるまで触って、何も考えらんなくなるまで、抱き締めてたい」

手のひらを薄っぺらい腹に押し当てて、撫でるように持ち上げる。やがてたどり着いた嵐の頬を上向かせ、後ろから覗きこんだ。

息をのむ。
想像していた表情は、感じて目尻を染めた嵐なのに、そこにあったのは完璧な笑顔で俺を誘う嵐だった。

「やぁだよ」
「嵐、」
「そーゆーのは、ホントに好きな人にやってあげな?」
「、出来ねぇから全部やるって、嵐が言ってただろ」
「そうだね、そうだけどね、それは違うよ、それは俺にやっちゃいけないことだよ、勘違いしちゃだめだよ頼」

俺、頼の好きな人じゃないよ。

そう言って腕の中からすり抜けた嵐は、立ち上がって俺の手を引いた。
俺は、何も言えないまま着いていく。突きつけられた言葉が、心の中をぐしゃぐしゃと抉っていく。
どうせ抉るなら、この想いがなくなってしまうくらい、穴を開けてくれればいいのに。

「あらし」
「…ん?」
「お前の好きな奴って、どんなの」

ベッドに乗り上げて笑う嵐は、立ったままの俺の手に柔らかい布を巻き付けた。
次いで白いスポーツタオルを持ち、きゅっと握って目を閉じる。

数十秒後には、俺の視界は人工的な白で覆い隠されてしまうから。
せめてそれまでは、嵐の全てをこの目に焼き付けておきたかった。

「この世で一番、かっこよくて、きれいで、やさしくて、俺の心全部持ってったのに、俺のものにはならない人、だよ」

視界は白く閉ざされ、俺は口を閉じた。
俺じゃダメなのかと、今日も訊けないままで。

(なんて不毛で、痛いばかりの恋を、してしまったんだろうか)