本当はこの手を、振りほどくだけの勇気があればよかった。
そうしたらきっと俺は、簡単にこの人に背を向けて居心地のいい友人の傍に逃げ帰っていただろう。

確かに足は歩くという動作を繰り返しているのに、どこか浮遊感のある気持ちのせいで悪酔いしそうだ。

ああでも、恐らく、それも無理かもしれない。
頭の中では淡々と逃げ帰るルートと自分の姿を描いていても、逃げたいと思っていても、それと同等に前に進みたいと切実に願う俺も居るのだ。
このまま先輩と共に居れば、確実に何か、そう例えば過去と向き合わなければいけない状況に追い込まれるのだろう。
先輩の態度と、場所、それから手の体温が、脈を打つようにその事実を俺の血管に流し込む。

好きだ。この人が。
それはもう、既に自分の中で見過ごせない程大きく成長していて、知らぬ振りをする気にもならない。
けれど、その気持ちを伝えるに至らないのは、偏に清算出来ていないレンとアズとの事が、しつこく頭のど真ん中にあるからだ。
それもちゃんと理解していた。

(ならば、もう、)

向き合えるはずだ。
そうする事で自分に正直になれるのなら、一時の胃の痛さくらい、我慢しようじゃないか。
乗り越えた先に、この人が居るのなら、怖いものなど。

「…ここ」

一つ二つ三つ、角を曲がってメインストリートの後ろ側。
小さな三階建ての建物に見覚えがありすぎて、笑うしかないかと思った。

目の前で電飾の消えた店名は、光っている時にはわからないが月明かりと街灯だけに照らされると、コードや蛍光灯の繋ぎ目が晒されて少しいびつだ。
営業時間の終了を示すそれの通り、近付くにつれ入口からたくさんの人が雪崩のように出て来る。
どの人も興奮が冷めやらぬといった風に、連れたった友人や見知らぬ人間との会話を楽しみながら、皆一様に笑顔で。

「営業時間、終わってますけど」
「いい。ここのオーナーに、この後貸してくれって言ってある」
「顔広いですね」
「そうでもねぇよ」

人垣を掻き分けて逆流しながら歩く。
男二人、固く手を繋いでいる姿はやはり異様で、周りの人の視線が至る所から突き刺さった。
生温い異常な学園に知らず慣れてしまっていたから、その視線達は少し、いや大分居心地が悪かったけれど。
クツクツと声を押し殺して先輩が笑うから、その声が鼓膜の中で反響してくれている間だけは、他の何にも意識を逸らす事が出来なさそうで妙な安心感を味わっていた。

入口すぐの受付カウンターを通り過ぎて階段を上がる。いつもこのライブハウスに来る時は必ずレンが一緒だった。初めて味わう生の演奏が思っていたより体全体に響いて、あの時は思わずレンの服を握ったんだっけか。
レンは笑いを噛み殺して、それに不満顔をする俺を慰めるように手を引いて、一番前まで連れてってくれた。

けれど今日は先輩と、昇った事のない階段を上がっている。

それが、この人との新しい世界を、ちゃんと俺も歩いている証拠になるだろうかと思うと、ひたすらにうれしかった。

二階も過ぎて三階、上がってすぐの扉に先輩が手をかけた。
今更になって確認のように見下ろしてくるから、俺は堪らず苦笑を返した。

「イロ」
「何ですか?」
「俺が居るからな」

あまりに真剣に、そんなドロドロに溶けてしまいそうな事を言うから。
先輩の手をノブから外して、俺はそこを一思いに開けた。
先輩のバーカ、という、照れ隠しを添えて。

後ろからのついてでたような吹き出し音が、愛おしかった。


「っ、イロ…っ」
「イロちゃん…久しぶり…」

想像通りと言うべきか、嫌な予感は当たると言うべきか。
広々とした室内、機材だらけの中心にある小さなテーブルに、彼らは居た。
自分から開けたくせに後退りそうになった俺を、真後ろに立つ先輩が先へと促す。

「……久しぶり、だな」

手前のアズ、それからその奥のレンに返した言葉は、図らずも掠れていた。
これが今の俺の心境かと他人事のように考えて、二人の顔を見れないままその向かいへ腰掛けるべく向かう。
その間沈黙が続くものと思っていたが、予想に反して立ち上がったレンが口を開いた。

「その手離せ、よ」
「え?」
「あぁ…羨ましいか?クソ野郎」
「てめ…っ」
「もう!レンちゃん!どうして一々突っ掛かるの!?」
「アズ…おばさんに似てきたな…」

そう言えわれてみれば手を繋いだままだったが、言われても尚何故か離す気になれず、関係性のない事が口を突いて出てしまう。
刺々しくなりかけた場の雰囲気が一瞬にして唖然となったが、無視して椅子に座った。
隣には先輩。向かいにはレンだ。

「に…似てきた、かな?」
「うん。怒った時の口調がそっくりだ」
「そか、あはは、あんま嬉しくない、かもなぁ…」

居心地悪そうに身じろぐレンの隣で、アズが困ったように笑った。
記憶の中のそれより、少し大人びたかな。この前は衝撃が先走ってマジマジと見る事が出来なかったから、すごく新鮮だった。

この部屋に入って、座ってしまった今では、何だか腹が据わったようだ。どうにでもなれと匙を投げた訳ではなく、ただ、何があっても大丈夫な気がした。
先輩の手の平にそうゆう効能があるのだとしたら、四六時中持ち歩けるそれが欲しいなどと、よそ事を考える余裕までが生まれた。

「あ…AZUMAさん、今日はわざわざありがとうございます」
「てめぇらの為じゃねぇがな」
「先輩…そう言えば今日の経緯聞いてないんですが」

恐らく前の接触時、遅れて帰って来るまでの間に何かしらあったのだろうと予測は出来るが、俺は何の説明もされていない。
俺の全く関係ない所での交流に口を出す資格はないが、今は思い切り当事者なのだ。

暗に早く話して下さいとニュアンスを織り交ぜて繋いだ手を揺らすと、先輩は目を細めて笑った。

「お前かわいーな」
「はぐらかさないでください」
「あ、い、イロちゃん!私がね、AZUMAさんにお願いしたの、イロちゃんと話したいからって!」
「そうか」
「なんだクソ野郎、羨ましいならそう言え、一々睨むな」
「クソ野郎はてめぇだろ!」
「レンちゃん!」
「…先輩…」

何なんだこの二人は。
アズと俺に窘められた先輩とレンは、揃って同じタイミングで反対側へ顔を背けた。
反りが合わないらしい。だが似た者同士にも見える。薄々そうだろうと思っていたが。

ぎゅう、と握る手に力が入って、溜め息が零れた。
大きな子供が居るような気分だった。