タン、タン、タンと、ゆっくりと足音が近付く。
思い返せば先輩を待つのは初めてで、いつもとは逆な立場が新鮮だった。

忙しいだろうに、必ず俺より早くあの場所で待っていてくれるのだ。けれど、俺なんかと、と卑屈な言葉は出てこない。

それは恐らく、先輩が付き合いでそうしている訳でない事を自惚れさせてくれているからだ。

先輩に憧れる人やお近づきになりたい人、昔から馴染みの委員長よりも、俺との昼食を選んでくれる。

嬉しく思わない訳がないのだ。

タン、と。
足音が止まる。
それと同時に、俺のすっ惚けた思考も止まった。

「雨竜依路葉…」
「え?…誰ですか?」

手摺りに片手を置いたまま、階段の一番下で佇む大男。
黒い短髪と、制服で隠れていてもわかるしっかりとした体格は、空手や柔道をしているような清潔感が漂っている。

その人は、重ための一重の瞳を見開いて、思わずといったように俺の名前を呟いてみせた。

「雨竜、依路葉…」
「あ、はい、そうですが…?」
「やっと来てくれた…」
「………は?」

さっきから意味のわからない事ばかりを言うから、俺の眉間にシワが寄る。
きっと俺は難しい顔をしているだろうに、その人はやんわりと微笑んだ後、泣く寸前みたく顔を歪めた。

そんなに切ない程、何が悲しいのだろうか。
そして誰だろうか。

どうしよう、面倒くさい。

タン、とその人が階段に足をかける。何となく立ち上がってしまった俺は、踊り場へと後ずさった。

「どうして逃げるんだ?」
「…何となく」
「ほら、おいで依路葉」
「日本語喋って下さい」

カモン、とばかりに腕を広げたその人は、今度は微笑みながらタンタンと階段を上がって来る。

平静を保って返事をしているが、内心おかしな危機感に溢れていた。
何かおかしい。この人、変だ。

「何度も手紙を出したのに、君は照れ屋だから中々来てくれなかった」
「何言って…」
「放課後、俺はずっと待っていたよ、ここで」
「………」

や ば い

俺は重大なミスを犯したようだ。
連日俺に届いていた手紙。あれはまさしく俺宛てだった。
触りしか読めなかったが、恐らくここで待つとの知らせも書いていたのだろう。
見たとしても来なかっただろうが。

そして、気付く。
あの手紙の中身、きっとこの人の妄想100%だ。

トンと背中が屋上の扉にぶつかる。踊り場へとその人の足が乗り上げた。

「歓迎会の日、スクリーンで君を見ていた。すごく平凡な顔立ちなのに、すごく可愛らしく笑ってた。皆気付かない。皆知らない。君の愛らしさに」
「眼科へどうぞ」
「減らず口も愛しい」

「でも、君は笑っている方が可愛いよ」

じわりじわりと、狙っているのではないかという位ゆっくりとしたスピードでその人との距離が近付く。
逃げようと模索するけれど、腕を目一杯広げている為狭い踊り場ではすり抜けるのさえ不可能に思えた。

その腕は抱きしめたいというより、まるでここから逃がさないと男の意思を汲んだ牢のようだ。

「笑って?」
「今笑えたら俺人間やめます」
「どうして……笑っていただろう!ルームメイトや風紀の奴らには!」
「やめっ…!」

突然顔を怒りに染めた男が、勢いを付けて俺の腕を掴む。
振りほどこうとしても、余程強い力で掴まれているのか手首がミシミシと悲鳴を上げるだけだった。

「その首の傷は何…?誰が付けたんだ、こんなに綺麗な肌なのに!俺がやっつけてあげるよ、君が望むなら殺してあげる。…誰?誰がやった…!」
「いたっ!痛い離せ糞野郎っ!てめぇ力加減も出来ねぇのか変態が!やだ、もう、せんぱ…っ」

先輩、助けて下さい。
俺の力じゃ、情けない事に腕一つ振りほどけない。

「ん?呼んだか?」
「え………」
「なっ…!おまっ」

あなたは、俺が助けて欲しい時に必ず現れるんですか?
だとしたら、俺は

どれだけ幸せ者なんだ。

錆び付き一つないのか、音もなく開いた背後の扉。
重心を失う俺の体を難無く抱きしめた先輩は、間抜け顔を曝す俺の額に上から唇を押し当てた。

突然の風紀委員の乱入に驚いたのか、男の手があっさりと離れていく。
痛む手首よりも、俺は先輩の唇の感触ばかりを感じていた。

「な、な、な、な、」
「まともに喋れねぇのかクズが。イロに手ぇ出しやがって。…まぁ、ちゃんと証拠は抑えたけどな。イロ、悪い」
「最初から居たんですか…」

男に向かってテープレコーダーのようなものをチラつかせた先輩は、ぐりぐりと俺の肩に頭を押し付ける。
脱力感に襲われた俺は、安堵して長い溜め息を吐いた。

「…もしかして、鼻歌聞いてました?」
「ついでに撮っといた」
「今すぐ消して下さいお願いします」
「もっ回歌ってくれんならな」
「嫌です死にます」
「ちょ、待て待て俺を放っていちゃつくな!」
「「うるさい」」
「あ、はいすいませ…って何でだ!」

頭を下げかけた男が慌てて首を振る。計らずとも放置されていた事が納得いかないらしい。
俺はと言えば、下手くそな鼻歌を聞かれていたダメージから男の事などどうでもよくなっていた。