木の幹にもたれかかった先輩が、こちらを最初から見据えていた。
一瞬だけ垣間見えた鋭い眼光を、途端甘やかに緩ませて。

ゆっくりと持ち上がった腕が、焦れる程のスピードで俺を呼ぶ。

イロ、おいで。

声など聞こえない。
けれど、俺の耳には確かにそう聞こえた。
上がる口角はどこか不遜だ。きっと、先輩じゃない人が同じような動作で同じような表情をしても、俺は何とも思わないんだろうと思った。

フラフラと、まるで俺の意志など関係ないというように足は勝手に歩みだす。
でもそこに俺の意志が全くないかと言われれば、それは違うと首を振るだろう。

本当はわかっているのだ。
俺はそこまで馬鹿じゃない。自分が一番良く知っている。
わざわざ答えを口にせずとも、心の中で呟かずとも、音声でも映像でもなく浮かぶ確かなアンサー。
早くしろと言った先輩に、早く見つけたものを差し出すべきなのだろう。だって先輩は優しい。優しいんだ。

だからこそ、何も気付かないフリを。

優しいから、俺の中に未だ残る過去のカケラを、そっとしておいてくれるのだろう。
だが、それは俺がいたたまれない。
もしこれから先輩に、本音で向き合う時が来るとしたら。
それは確実に、過去と向き合ってからでなければいけない。

何一つ解決出来ぬまま、あの人の前に正直な気持ちを曝す事は出来ないのだ。

眩しくて、後ろめたくて堪らないから。

「先輩…こんにちは」

目があったまんまなのだから、挨拶が今更のようで少し滑稽だ。
そう思いながら発した俺の声はちゃんと先輩に届いたようで、先輩は笑った後何故か立ち上がった。
ズボンについた草を適当に払って、涼しい木陰からわざわざ暑い日照りへ。

どこへ、と考え首を傾げるが、それもまた、一瞬で。

「おせぇ」
「せっ……んぱ、」

どうしてこの人の腕は、小さくもない俺の体を包み込めるのだろう。
別段細くもなければ、まぁ太い訳でもないが、そこそこ平均的少し貧弱寄りな体格の人間を片手で抱き込めるという事は、相当先輩の腕が長いのか。まさかゴム人間だなんて事は、あぁ、こんな事を考えたかった訳じゃ、ないんだ。

「早く会いたかったのに」
「き、…昨日も、会いました」
「別れてすぐ会いたくなんだよ、何だ文句あんのか」

拘束されたままで首を振り、心の中だけでないですと繰り返す。
口を開けば言ってしまいそうだったからだ。俺もです、と。
日光よりも更に熱く感じる抱擁に甘んじて、堪らず溜め息を零した。
腕の感触も胸板の温もりも本物だ。本物の先輩。
昨日テレビで見た、笑顔なのに冷たい先輩じゃない。
いつもの、真綿で首を絞められているような苦しさを俺に与える先輩だった。

たった一日でこんなにも、懐かしく思えてしまうとは。

「先輩、あの…」
「ん?」
「……お昼ご飯、食べませんか」

そんな安易く甘えたような声を出さないでほしいと思った。
頭上から脳天に響く低い声が、このままで居たいと俺に我が儘を言わせてしまいそう。

捨て難い拘束を何とか振りほどく決意をして、もぞりと埋まっていた胸元から顔を上げる。

目を閉じたままの横顔は思った通りありえない程近くて、思わずその端正な顔を見つめた。

暫く、そのまま。
そしてゆっくりと睫毛を震わせて瞼を開いた先輩は、それを細めたまま俺へと視線を合わせた。

じんわりと汗が滲む。
どこか安心感を齎す瞳の拘束を、今度は振り切れないでいた。
ただ太陽の光が照らした瞳は常より薄く、輝きを放っていて。

「綺麗…」

たかが人間の眼球なのに。
これ以上に美しいものはこの世にないと、俺は言い切れる自信があった。

「…何が?」
「え?あ…いや、何でも、」
「な、に、が?」
「…っ………」

内心、目を閉じないでほしいとまで思ってしまっていたそれを、先輩はあっさりと閉じた。
また開いて、ぼやけて見えない程近付く瞳、顔。

働きものの心臓は更に忙しなく、唇は正直に無意味な開閉を繰り返した。

言えよ、と言葉なく迫る先輩に恐怖などは抱かないが、如何せん心臓が可哀相だ。
限界まで近付いて、先輩の唇が俺の唇の横にくっつきそうな距離を保ったまま、先輩は意地悪そうに笑んだ。
あぁもぅ、どうしてこの人に俺なんぞが逆らえようか。

「せ…んぱい、の、瞳、綺麗です」

何を言い淀んでいたんだと不思議に思う程すんなりと、俺の唇は思いを紡ぐ。
少しでも顔の角度を移動させれば、もしくは先輩が動かせば、そこで唇同士がくっついてしまうと心は焦っているのに。

「ふぅん?…食うか」
「は…い…、」

あっさりと先輩が体を離して、喜ばしいような物悲しいような相反した感情がグルグルと渦巻いた。
烏滸がましくも、先輩があのまま触れてくれればと思う俺と、これで良かったんだと溜め息を吐く俺と。
けれどそのどちらの俺も、少なからず落胆の意を秘めている事を悟ってしまった。

「イロ?」
「あ、…はい」

少し離れて振り返った先輩が、不思議そうに俺を見る。
さっきまでの雰囲気を一掃した姿が、いつまでも余韻から抜けきれないでいる俺を恥ずかしく思わせた。

慌てて木の下に寄り、先輩と共に腰を下ろす。
いつものように広げた弁当箱の中身を見て、嬉しそうに笑んでくれるのも、当たり前になりつつある光景だった。

「お茶どうぞ」
「サンキュ。今日のメインは鰤?」
「はい。…お魚は嫌いですか?」