大切なモノは守りたい。

けれど俺は、俺にそんな大層な力がカケラも備わっていない事を理解していた。

【Subject】

二つ分の弁当箱とお茶が入った重い袋を持って俺は教室を出た。
食堂へと流れる人の波を横切って、ガランと人気のない裏庭に向かう。
先日の暴力事件、体調不良などで迷惑をかけたお詫びに、とリクに弁当を作った時、俺の脳裏に先輩の顔が浮かんだ。

リクもそうだが、先輩の手も非常に煩わせただろう。
足しげく見舞いと称して顔を出してくれたのはとても嬉しかったが、風紀の仕事はそれなりに忙しかったはずなのに。

そう考えると、いや考えずとも申し訳ない。

そんな風にツラツラと回想混じりの思考にふけっていたからなのか、無意識に詰めていた三つ目の弁当箱を見た時は、本気で自分はおかしくなったのかと思ってしまった。
慣れた作業とはいえ、出来上がるまで気付かないとは驚きだ。殴られた時の衝撃で脳のどこかの線がプツンと切れてしまったのかと焦る。だが作ってしまったものは仕方ない。

気軽に食わせられる友人も居なければ、二つ完食出来る程俺の胃袋は伸縮性に優れていないしな。
一度聞いてみて、いらなければ夜に食べればいい。まだそんなに暑い季節ではないから、授業が始まる前に寮へ帰って冷蔵庫に入れれば問題ないだろう。

「東雲さん!!」

校舎を出て特別棟のへと続く渡り廊下の下を通り過ぎようとした時、頭上から知らぬ声でここ最近覚えた固有名詞が聞こえた。
何気なく見上げた特別棟二階の入口に、見慣れはじめた金髪が映る。
先輩は今まさに扉に手をかけたところのようで、顔だけを後ろへ向けた。

「突然スミマセン、あの…」
「んー?どったのさ」

小走りで先輩の前に立つ人物。
その人に対する先輩の態度に何故だか違和感を感じた。
俺の居る位置からは死角になって顔は見えないが、何となく、先輩は今笑顔なんだろうと思った。

「あの!僕、僕…東雲さんの事がっ…」

その人が必死に紡ごうとしている話しの趣旨を、ぼんやりと理解する。
まずい。これではデバガメじゃないか。

真剣な声を、言葉を、部外者の俺なんかが聞いてはいけない。
先輩の答えも全て。

なのにおかしい、足が張り付いたように動かない。

「そっから先は言わない方がいーよ」
「え…?」

おちゃらけた軽い声が聞こえた。
先輩は今、どんな顔でその人を見ているのだろう。

「想うのは自由だけどね。俺には何も求めないで。傷付きたいなら手伝ってあげなくもないけどー?」

どーする?

先輩が首を傾げると、人影は俯いたまま、校舎の中へ走って行った。

先輩、その言い回しじゃ、既に傷付けてると思うよ。
大事な人が言われた立場ならば、腹立たしいとか悲しいとか、そんな感情を抱いたのかもしれない。
けれど、見ず知らずの他人が傷付けられたって何とも思えない薄情で優しくない俺は、黙って駆けていく足音を聞いていた。

動けなかったのは何故だろうか。
今更になって罪悪感が沸いて来る。
結果はどうあれ、とてもとてもあの人には大切な時間だったのに。

けれどどうして。
何かが嬉しくて、堪らない。

「イーロ」
「っ!」

あまりに近い場所で聞こえた声に、体が大袈裟に跳ね上がる。
いつの間にそこに居たのか、さっきまで渡り廊下に居たはずの先輩が真後ろで可笑しそうに笑っていた。

「聞いてたか」
「あ、…すい、ません」
「いい。知ってたから。イロが歩いてんの上から見えたから、追っかけてた途中だったしな」

と、言うことはだ。

つまり俺が下で、不本意ながら聞き耳を立てているのを知っていての、あの態度なのか。
ならばそこまで萎縮する必要はない。先輩に対しては。

恐らくジットリとした半目になっているだろう視線を、先輩に向けた。

「…いつもあんな感じなんですか」

断り方が酷いとか、あの人が可哀相だとか。そんな風に先輩を責める権利もなければ必要性もない。
ただ、思った事を口にした。

「あんな?」
「さっきみたいな事、です」
「あぁ…、何、カワイソウって?」

高い場所から馬鹿にしたように俺を見下ろす先輩は、口角をニヤリと上げた。この人は、俺に何と言わせたいのだろう。

可哀相だから、もう少し言い方を考えた方がいいのでは?
もしくは、先輩だって急に言われたんだから困って当たり前?

暫し見つめ合ったまま正解は何かと考えてみたけれど、どれが答えでも口にするのは憚られた。
最終的に残ったのはやっぱり、一般的に"酷い"であろう自分の意見。

「別に。俺はそこまで優しくないから、知らない人が傷付いても同情心は湧きません」
「へぇ…木津だったら?」
「怒ります」
「俺だったら?」
「怒るに決まってるじゃないですか」

レン、アズ、リク、そして先輩。
この先俺がどんな人間関係を築き、どんな風に生きていくのかはわからない。
けれど今、今俺が守りたいとおこがましいながらもそう思うのは、この人達だけで。

当たり前だと言外に滲ませて見上げると、先輩は綺麗に目を細めた。
それがあまりにも優しげで、大切なものを見るような視線を俺に寄越すから。
呼吸とか時間とか、心臓すらも止まったような気がした。

細まった薄い色の瞳にはきっと俺が映り込んでいて、目尻にはうっすらと笑い皺が浮かんでいる。この瞬間の先輩を俺だけが見ている事に、例えようのない優越感を感じた。

「おれも。イロが大切。大事な奴にあんな態度はとらねぇ。えこ贔屓は百も承知だ」

そう言って俺の手に指ごと絡めてきた手の平を、躊躇いもなく握った。