レン
後どれくらいの時間が経てば
お前を思い出に出来るんだろう
【Around】
「じゃ、ちゃんと寝てろよな。昼に一回帰って来るからさ。保険医にも来るよう言っとくし」
よっこらしょ、っと親父臭い掛け声で気合いを入れたリクは、鞄を肩にかけて立ち上がった。
俺はと言えば声を出すのもジェスチャーで返事をするのも億劫な程だるくて、視線をリクに向ける事で返した。
「何かあったらすぐ携帯鳴らすんだぞ?授業とか気にしなくっていーからさ!」
いや、そこは気にするし気にしろよ。
もう遅刻寸前の時間だと言うのに、心配そうにあれやこれやと母親のように世話を焼くから思わず笑ってしまう。
結局熱を出して寝込んで迷惑をかけているのに、リクは少しも迷惑な顔をしなかった。
そんな彼を自分のせいで遅刻させる訳にはいかない。そう思って痛む腹に力を入れた。
「…ありがと。早く行け、遅刻する、から」
「イロハがそう言うなら仕方ないなぁ…。でもホントのホントに何かあったら、」
「わかった、する。するから、行・け」
「…いってきます」
「いってら、しゃい。リク」
情けなく肩を落とした背中が扉の向こうに消えたのを確認して、ふうと一息ついた。
何とか間に合いそうか?
それにしても…リクがあんなに心配性な奴だったとは。
嬉しさ半分、こそばゆさ半分。どちらにせよ嫌な気は全くしない。
ベッドサイドの低い棚の上には、サンドウィッチとスポーツ飲料、それから水と沈痛解熱剤。
……母親か、お前は。
ずっと昔、まだあの母親が母親らしかった頃をふ、と思い出す。
そう言えばあの人も、寝込む俺を放って仕事に行くのが不安なのか、ずっと横についていた。
その時も俺は「早く行って」と嬉しさを噛み締めながら送り出したんだ。
懐かしい。と吐いた息は静かに空気に溶けた。
俺が昇った陽に当たらないように片方だけカーテンが引かれた窓から、朝日らしい爽やかな光が部屋に差し込む。
昨日とは大違いの晴れやかな気分で受け止める一人の部屋は、ひたすらに居心地が良かった。
+++
『イロ、どう思うよこの色』
息苦しさで心地よい昼寝から覚醒した俺の視界一杯の灰色。
窓から差し込む太陽に照らされて、キラリと銀色に光る。
『イロ、起きろってば。なぁ、どう?どう?』
あぁ。
レン。だ。
『…今度は、灰色なんだな』
『アッシュだって。なぁ似合う?』
髪を弄るのが大好きなレンはコロコロと色を変える。
それでも、趣味のように手入れを怠らないからレンの髪はいつだって綺麗だ。
『似合うよ。…触っても、いい?』
無言でレンの手が俺の手を髪に導く。
指先を滑る髪も、甲を覆うレンの体温も、愛しくて堪らない。
いつもハーフアップにされた髪が今日は下ろされていて、ワックスも何もついていないのが新鮮だった。
ほんの少し残った染色剤の匂いに混じって、シャンプーの香りがする。
『染めたのって、さっき?』
『そ、イロに早く見てもらいたくてすっ飛んで来た』
『…俺、一番?』
レンの手が俺の頭に伸びる。髪を撫でて頬を辿る。
されるがままなのが妙に恥ずかしくて、レンの首に腕をまわして引き寄せた。
二人分の体重に悲鳴を上げたベッドのスプリング音に重なった言葉。
嬉しくて、恥ずかしげもなくキスを強請ったっけ。
泣きそうだ。
なぁレン。これは夢なんだな。
だって俺は、この時かき消されたはずの言葉を知ってる。
『当たり前』
って、囁いた声、まだ覚えてる。
鼓膜だけじゃない。
心臓も体も心も、何もかもが歓喜に震えた瞬間をまだ覚えてる。
あのままじゃれ合ってる内に二人して寝ちゃって、アズに笑われたんだっけ。
懐かしい?
……ちがう。
本音は全然、そんな綺麗じゃないんだ。
本当はまだ想い出になんかしたくなくて、出来る事なら今すぐあの頃に戻りたい、お前の傍に行きたい、なんて。なんて身勝手な。
どれだけ格好付けて、過去だから、終わった事だから、と御託を並べてみても、未だ俺の心にどっかりと座り込んで、際限ない愛しさと叫びたくなる辛さを、お前は常に俺に与えてくれる。
どう足掻いても。世界を見渡してそれがどれだけ広い事に気付いても。中心に居るのは相も変わらずレンなんだ。
よくあるハッピーエンド主義の小説みたいに「好きになった事を後悔なんてしてない」なんて、言えそうもなくて。
確かに愛されていた事は知っているのに、幸せだったのに。
性懲りもなく、出逢わなければと心の奥の方で汚い俺が泣く。
そんな自分の自己中さに吐き気がする。
けれど、事実。
レン、夢になんか出て来るなよ。
忘れようとしている俺を綺麗な暖かい思い出で、責めているのか?
だったら…だったら頼むよ、俺に教えて。
お前を想い出に出来る方法を。
元の俺たちに、戻る方法を。