「…遅かったな」

ガチャリと扉が開いた音と共に現れた人物は、またもやびっくりするくらいの美形だった。
仮眠男より少し低いが平均を優に越える長身、茶色い髪はウルフカット。
そして何とも目を引くのが、セクシーな垂れ目と左目の斜め下にある泣きボクロ。

全く、この学園の人間の遺伝子はどうなってるんだ。某美男子事務所も驚きの美形集結率だと思う。

よくもまぁここまで集まった。…俺、入学してきてスイマセン。

「加害者の顔は覚えているか」
「はい」
「じゃあ東雲、お前は生徒名簿から名前と学年を探して、会計の倉持に報告。木津は学校側への報告書を作れ。明日の放課後には完成させろ、いいな」
「「はい」」

委員長と呼ばれた人は、持っていた分厚い本を仮眠男に渡し、テキパキと指示しながら俺の座るソファへ歩み寄ってきた。
その鮮やかなリーダーぶりを唖然と見ていると、向かい側に座った委員長と目が合う。

「三浦環(みうら たまき)、風紀委員長だ。お前の名前は」
「…雨竜です」
「雨竜か。…無事とは言えなさそうだが…骨に異常はないか?」
「あ、はい大丈夫だと思います…ありがとうございます」
「色々と無事で何よりだ」

ふんぞり返って座る委員長だが、思いの外言葉はキツくなくて、何だか申し訳なくなって俯いた。
こんな時間まで起きて居なきゃいけなかったのは、俺みたいな一人じゃ自分の身も守れないような情けない奴のせいで。
木津や仮眠男も、こんな時間まで走り回ってて、しかもこれから書類を作ったりするんだ。

あの時ノコノコ着いて行かなければ、こんなに人に迷惑をかけなくて済んだのかもしれないのに。

「イロ、…何か余計な事考えてんのか」

誰かが隣に腰掛けた。
沈んだ思考はそのお陰で現実に舞い戻ったけど、顔を上げられない。

イロ、と呼ばれた。
わかってる、今この場で俺の名前を呼ぶのは彼だけだ。

「…こっち向け」

大きな手が俯いた俺の視界に入ってきた。かと思ったら、顎をガッシリと捕らえられて、痛くない程度の力で仮眠男の方へ向かされる。

心臓が妙に暴れているのは、顔が思ったより近い場所にあったからか。

やっぱりその薄い色の瞳が綺麗だったからか。

「今度は逃げんな。俺は東雲慶一郎(しののめ けいいちろう)。副委員長で、二年だ」

言い聞かせるような優しい声が降ってくる。
息が詰まる程の穏やかな表情は、やっぱり俺の心臓を虐める原因なのかもしれない。

だってほら、耳の横で脈が聞こえそう。

癖なんだろうか。
東雲先輩は極自然に、俺の髪に指を通しながら頭を撫でる。
節くれ立った指が髪を梳く度に、もしかしたら神経が髪に通ってるのかと思うくらい気持ちよかった。

「ずっと探してた」

視界の端っこで、委員長が肩を竦める。立ち上がって見えなくなった。
そうすれば、先輩の瞳の中には俺だけで、それはつまり俺の瞳にも先輩だけが存在するんだろう。

「次、イロに会えたらぜってぇ名前呼んでもらおうって」
「…どうしてですか」
「秘密。まだ教えてやんねぇ」

それだけの為に俺を探していた?
その理由がわからない。

それが済めば?
そう俺が思う理由も、わからない。

頭の中はグチャグチャだ。
違う、わからないからグチャグチャなんじゃない。
わかりたくないからグチャグチャなんだ。毎日毎日警戒して、そう言えばこの人の事ばかり考えていたから、余計おかしくなる。ほだされていたような生暖かさだ。

曖昧な言葉に期待はしない。するだけ自分が可哀想だ。
だから俺は、何もわからない事に決めて。

「イロ、呼んでみろ」

初めて会った時、この人はこんなだっただろうか。
もっとテンションが高めで、犬みたいだと思ったのに。
言葉遣いも雰囲気もまるで違う。

あの馬鹿みたいなテンションは何処へ。
ちょっと近所に出かけているなら今すぐ帰って来てほしい。

今の先輩には、逆らえる気がしない。優しそうな甘い表情で笑うのに。
先輩を拒否する事を本能が拒否する。

「東雲、先輩」
「そう、イロ…俺の名前は?」
「…慶一郎先輩」
「そうだ」

先輩の親指が瞼をなぞる。
反射的に目を閉じると空気が揺れた。
そして閉じた瞼の上に、柔らかい、感触。

何か、なんて愚問だ。

「イロ、イロ…すぐに助けてやれなくて、悪かった」

その柔らかいモノが瞼に触れたまま動く。
暖かい吐息も感触もくすぐったい。でも動けなかった。
何故なら俺の頭は、いつの間にか先輩の腕の中だったから。

「もう絶対こんな目に会わせねぇ…絶対だ」

あったかい。
うでも、ことばも、せんぱいも。

こんなに暖かい気持ちになったのはいつぶりだろうか。

「…どうして?」

辛うじて絞り出した声は酷く掠れていた。
ゆっくりと温もりが離れていく。
冷たい空気が代わりに間に割り込んで。
少し名残惜しい、なんてそんな事。

「秘密だっつったろ?」

いつか、教えてくれるんですか?

その問いかけは言葉に出来ないまま。
先輩は器用に片眉をあげて笑った。

どれだけ見つめ倒しても、先輩の瞳の色は綺麗だと思った。

「あーのーさー…」
「ッチ」
「っ!」

パンパンっと手を叩く音が聞こえて我に返った俺は、音源へと勢いよく首を向けた。
委員長と木津が机にもたれ掛かってこちらを見ていて、それはつまり、さっきまでの俺達も見ていたという事で。

カァァ、と頭に血が昇っていくのをリアルに感じた。

「イチャイチャすんのもいーけどさぁ、俺らの事忘れてない?」
「全くだ…ブラックコーヒーが飲みたい」
「ゲロ甘でしたもんねー」

恥ずかしい…俺は何をしていたんだろうか。
何かを言い返したいが、悪いのは二人を忘れて自分たちの世界へトリップしたこちらなので、下手に言い訳も弁解も出来ない。

それでも甘い甘いと口にする二人の小言を黙って聞ける程俺は大人じゃなくて、やりどころのない羞恥を先輩を睨むことで晴らそうとした。

ヘラリと笑い返されただけだったが。

「わりぃ。イロ、もう帰って寝ろ。木津、ちゃんと手当してやれよ。本当なら俺がしたいとこだけどな。酷かったら保険医を呼べ」
「いえ、自分で…」
「そのつもりでーっス」
「っ木津!!」

慌てていると木津が、立てる?と手を出してきた。

一瞬だけ、その手をとる事を躊躇う。

一度は手酷く拒んでおいて、もう一度差し出してもらうだけの資格が俺にあるのだろうか。
ましてや、その手を取りたいなんて都合のよすぎる話しで。

今はただ歩くのを手伝おうとしてくれているだけなのに、この手を取れば俺は、それがクセになってしまいそうな予感がして。

「イロ、俺に運ばれてぇ?」
「木津っ」

横で黙っていたはずの先輩が物凄くイイ感じの笑顔でそう言いやがったので、俺は咄嗟に木津の手を握った。あの情けなさは出来ればもう経験したくない。

けれど、緩む木津の顔を見なきゃいけなかった今の状況も相当遠慮したい部類に入った。委員長と先輩が微笑ましそうに俺と木津を見ていて、今度は泣きたくなった。
「…っ肩、貸してくれ、」

ボソリと呟いた言葉は、今のおれにとって精一杯だった。


「イロ、また明日…あそこで」

木津に肩を借りて部屋を出ようとした時だった。
少し振り向くと先輩が笑ってて。だから俺も笑顔を返した。

「はい、…また、明日…委員長、ありがとうございました」
「大事にな」
「そんじゃ、失礼しましたー」

俺はもう気付いていた。
気付かずにはいられなかった。

どれだけ頭が"怖い"と訴えかけても、心と体は人の温もりを求めてやまないのだ。

不変な日常が有るはずない事は知っている。
だからこそ不変でない事をもう覚えたくなかった。


でももう手遅れだ。


レンとアズ以外の色が、体温が、言葉が、存在が

こんなにも心地よくて
変わりゆくのも悪くないなんて


レン。
世界は広かったよ、こんなにも。