『イロ、イロ。大好きだ』

忘れなきゃって、わかってるんだよ


【Be dyed】


あの日から俺は昼休みにあの木の下へ行かなくなった。

自意識過剰、って自分でも少し思うけど、念には念を、だ。少しの確率でもあの男と会う事がないように。視界に入れる事がないように。
名前を名乗ったとはいえ、いくらなんでもわざわざ一学年のクラスを見てまわって探す程の人物ではないだろうし、俺が。
そこまでされる程の事をした覚えはないし。

たかがメロンパン一つの縁。

結果、教室に居れば万が一もないかと思うに至ったのだ。

別に印象が最悪だとか嫌いだとか、そうではない。
だけど仮眠男に会ってはいけない。そう決めていた。

あの雰囲気は俺には毒でしかない。
じわじわとぬるま湯に浸かっているような、微睡みそうな暖かさは。

何より、あいつと重ねてしまう自分が居るから大層困る。
もやのかかった感情が視界に入れば、それだけで爆発を起こしそうな、そんな気さえする。

「雨竜、それうまそうじゃん、一口くんねぇ?」

ところで、俺は例の如くやかましい教室で昼食を取っているはずじゃなかったか。
早くに目が覚めたから弁当持参で、ついさっきまでのんびりとだし巻きに舌鼓をうっていなかったか。

「え、だし巻きダメ?ちぇ、じゃあそっちのカラアゲ!」
「や、そうでなく」

何故お前が目の前で昼食を広げ、あまつさえ仲良くお昼食べてます的な空気を醸し出しているんだ。

「木津、お前食堂じゃないのか」

箸を置いて呆れたように見ると、木津は俺の弁当から視線を上げた。
キョトンと見上げてくるが、たいして可愛いと思えない。

「だって雨竜と飯食いたかったから」
「は」
「最近教室で食ってるからさー、これはチャーンス!!って思って」

頬杖をついて、何が楽しいのかニコニコと笑いながらおにぎりにかぶりついた。ため息が出る。

「お前は何がしたいんだ」

これでもかって位冷たくあしらっているし、必要最低限の事しか話しかけていないし。
それでもめげず俺をしつこく構う理由も意図も、俺にはてんでわからない。

「木津……お前もしかして…」

ある仮定に行き着いてしまって、少し身体を引いた。
心はどん引きだ。

「マゾヒストなのか?」

冷たくして好かれるなんて、激しくごめん被りたい。俺には無理だ。そんな嗜好はないし、目覚める予定もない。
そうゆうのはちゃんとした専門の方にお願いしていただきたい。

「ちっげーよ!つか雨竜がマゾヒストなんて言葉使うな!!」

使うな、て木津は俺にどんな人物で居てほしいんだ。
そう思ったが、あまりに必死そうな顔で言うもんだから曖昧に流す事にした。とにかく木津が普通でよかった。
同室者がアブノーマルな世界の住人だなんて、本気で部屋替え申請を検討しなければいけなくなる。
それがとても面倒くさくて嫌すぎる。
だからといって同じ空間で過ごす事に抵抗を覚えるのは致し方ないだろう。
誰だって未知の世界は怖いのだ。

「じゃあ何なんだ。どうして俺に構う。はっきり言って糞迷惑だ」

それだけ言って、目を逸らした。
こいつは知らないだろうけど、すでに小さな嫌がらせはされている。
俺の思った通り、こいつも慕われる部類の人間だったという事。
俺からしてみれば少々暑苦しいが、顔はいい。少女漫画のヒーロー役で出てきそうな、汗が似合うイケメン。
頭は知らないが、実際体育などではイキイキとはしゃいで走り回っているし、それを見た生徒が見惚れているのもすでに慣れつつある光景だ。部活に入っていないのがショック、と聞こえてきた声に呆れたのは最近の事。

だから、予想はしていた。
同室で、しかも何かと声をかけられているのに全部あしらっている俺に、嫉妬の矛先が向くだろうと。

まぁ小さすぎる上に小学生レベルだから、気にも留めなければ傷つきもしないのだから、ご苦労な事だとしか思えないのだけれど。

それに。
少し、焦っている。

最近は何かにつけてこいつが付きまとってくるから、居なくなった時に、寂しいと感じてしまうのだ。
例えるならば大勢で遊びに行った帰りの、急に一人きりになった瞬間のような、物悲しい感情が。
それに気付いて、虚しくなるのが滑稽で馬鹿らしい。

どっか行け。そう言って突き放すのは俺なのに。酷く置いてけぼりにされるような、木津を悪者にしてしまいそうな。

「雨竜はさ、俺のこと嫌い?」
「そうじゃな、……っぁ……」

俯いてしまっていた顔を勢いよくあげると、優しい表情で木津が微笑んだ。
まるで俺の反応がわかっていたかのように目を細めるから、弁解の言葉が出てこない。
犯してはならない重大なミスを犯した。喧噪が遠のく。
視界はただただ、木津。

そう、俺はしくじったんだ。

「嘘がつけないんだよな雨竜は。なぁ知ってる?暴言吐いた後は自分が言われたような顔するんだ。そんで俺がどっか行こうとすると、捨て猫みたいな顔して俯くんだよ」

何かを言わなければいけない。
だけど何も言えなくて、言葉は形にならず失敗作として散っていく。
きっと、何を言っても俺に勝機はない。

眉を下げて笑う木津に視線が釘付けで、瞬きする方法が思い出せない。
純粋に、驚いていた。

俺自身自覚のないことを、木津が見ていた事。
今まで俺の世界はレンとアズのたった二人だけで、それで満足だったし他の人間がこの世界に加わる事がおぞましいとさえ思っていた俺は、こんな人間がいる事にザワリと心が波打った。

世界が揺れる。
望むことなどないと確信していた変わらない景色に、異端が滑り込む。何の違和感もない事に違和感を感じた。

「入学式の前にさ。雨竜を見たんだ、駅で。猫と遊んでた。お前、笑ってた」

ゆっくりと、木津の手が伸びてくる。
迷う事なく払い落とすはずの未来を、俺は実行にうつせないでいた。
目尻に指先が触れる。
一瞬、ほんの一瞬だった。
絶妙な距離を保って当たる事なく頬を滑り落ちる指先を、全身で感じていた。
今にもその手にすり寄りたくなる激情に戸惑う。訳の分からない愛しさが木津の姿をぼやけさせるから、慌てて拳を強く握った。

ゆうるりと開かれた手のひらが、目の前に差し出される。

「俺と、友達になって」

柔らかく言われた言葉に、頷いてしまいそうだった。
わかってる、嬉しいと思ってるんだ。
この手を取れたら、世界の景色が変わるのだろう。そうしたいと望む自分と、変化を嫌う排他的な自分がいた。

変化は怖い。
人間に永遠なんてもの、存在しないんだろう?
俺がどれだけ望んでも、大きなうねりには勝てない。

いつか、離れていく。
不変だと疑いもしなかった、あの日常だって。

ゆっくり、首を横に振って木津を見上げた。

「友達なんて、いらない。……俺は一人でいたい」

一瞬、僅かに傷ついた表情をするから見ていられなくて、半分程減った弁当箱をしまう事で視線を逸らした。
カバンを取り出し、立ち上がる。
「俺帰るから」

顔も、行き場を失った手も見れないまま、教室を足早に後にした。

このまま放っておいてほしい。

そうすればもう、悲しむ事も悲しませる事もないのに。

「俺はいつでも、雨竜を待ってる。差し出した手は…お前が取るまで引かないよ」

木津が呟いた言葉を、俺は知らないまま。