思った以上に睡眠不足で
思った以上に腹が減ってて
思った以上に身体は悲鳴を上げていて
お前が
思った通り綺麗に笑ったから
【Unfogettable】
小さな背中が、俺から逃げるように去ってゆく。
追おうと思えばそう出来たし、引き留めようとすればそれも叶っただろう。
けれど、伸ばした手は結局、三度目に彼を掴む事が出来なかった。
言葉も、表情も、瞳も、何かを堪えるように寂しげな色を漂わせるのに。
あの小さな背中だけが俺を拒絶する。
引き留めてどうする。どんな言葉を紡ぐ。
…ドウシタイ?
校舎の中に今にも消えそうなその後姿を、掴みとるように拳を握る。
優しく、壊さないように。
手のひらに収まった小さなその影に、酷い優越感を覚えた。
「イロハ、かぁ…」
一番最初、俺が目を覚ましたのに気づいた時の顔を思い出す。
目を丸くして驚いたように瞬きをしていた。
それから、腹が減ったと伝えた時の面倒くさそうな顔。思い切り口がへの字になっていて、今にもため息をつきそうだった。
俺がパンを食べながら話しかけた時は、無表情ながらも鬱陶しそうだった。だけど律儀に返事をする所が好ましかった。
名前を褒めた時。
泣きたくなる位、綺麗に笑ったんだ。
照れたように、……何かを、思い出したように目を細めて。
それは、何?
誰を想ってんだ?
確かに俺の目を見て俺と会話をしているはずなのに、イロハの中に俺は居ないと感じた。
きっとイロハは、俺を俺として認識していない。
けれど同時に、彼は俺に何も求めていなかった。それは本来、俺が欲しかったもののはずなのに。
(どうして、)
綺麗な人間と笑顔は見飽きる程見てきたし、そんな貼り付けたもので今更心動かされたりなどしない。
それなのに、だからこそ、
イロハの笑顔が、宝物のように見えた。
傍に居てほしい、もっとこっちを向いて笑ってほしい、頼むから、もっと。
そんな事を叫んで、縋って、抱きしめてほしくなるような。
なりふり構わずに俺のものに
「……何考えてんだ俺は…」
ゆるりと頭を振り、木の下に座り直した。
彼の座っていた場所を無意識に撫でていた自分に気づいて、頭を抱えたくなった。
「忘れて、って…んな事言われてもなぁ…」
はっきり言わせてもらえば、そんなの不可能に近い。これ程までの衝撃をそう簡単に忘れられなどしない。
いや。忘れたくなどない。
あんなに寂しそうな捨て犬みたいな顔で「忘れて」と言われても、無理だ。
現に今、俺は彼の事をもっと知りたいと思っているし、近くに居たい、寂しそうな顔なんてさせたくないと、漠然とそう思ってしまっている。
それがどうゆう意味なのか、今はあえて考えないようにしているけれど。
「ここに居たら会えっかなぁ…」
暫くここに通ってみようか。
また会えたら、今度こそ名前を名乗って
あの声で、俺を名前を呼ばせたい。それだけで何かが満たされる気がする。
遠くで昼休み終了の鐘がなる。
もうすぐ仕事に行かなければいけない。部屋に帰って、着替えて、新しい歌の楽譜を持ってマネージャーを待っていなければ。
あぁ、ここから離れたくない。彼の気配が残る場所で、彼を歌にしてみたい。
この暖かな気持ちを、形にして高らかに歌いたい。
もう遅い。
一目惚れだ。
どこにでも居そうな少年の、笑顔に。
気合いを込めて立ち上がると、春の匂いがする風が吹いた。
頬を髪が撫であげる感覚が清々しい。
振り返って、俺を彼に引き会わせてくれた木に手のひらを翳した。
「また明日」
イロハ。
始まり。
俺の恋も、始まった。