妙な肌寒さに皮膚が寂しくて目を覚ました。
既に暗闇に慣れている視界にはいつも通りの我が家が映って、その冷たさに瞼が震えた。

「………?」

何故こんなに端に寝ているんだろうと、ズリズリ体を擦ってベッドの真ん中に寝そべってみる。
シーツの中で両手を広げてみて、違和感に眉を潜めた。

暖かい。俺の寝ていた場所でない場所が。

壁側に寝返りをうって、また確かに違和感を感じた。

何かが足りないのだ。
腕の中だとか景色だとか、足の間の妙な空間が、ひたすらに寂しいと俺に訴えてくる。
試しに置いてあった枕を抱きしめてみるという摩訶不思議な行動を起こしてから、ハッとした俺は身を起こした。

「枕…?誰、の?」

一人で寝ていたはずなのに、きちんと自分の枕の隣に水色のピローが並んでいる。
それはいやに冷たくて、そんな記憶もないのにこれを使っていた奴はこれを使う必要がなかったのだと理解していた。
何故?何が足りない?

「チッ…今何時だ」

体の奥底から押し上げるような衝動にすら意味がわからなくて、その責めるような想いに舌打ちした。
枕元の携帯を開いて時刻を確認すると、俗に丑三つ時と言われる時間がデジタルの丸々とした文字で表示されている。

「は?何コレ…」

そして使い慣れた携帯に、見慣れぬストラップ。
せっかく軽量化された携帯にわざわざ重みを加えるなんて理解不能だと思っていたから、俺はストラップなど付けていなかった。
革地の紐の先にプレートがぶら下がったシンプルなストラップ。
四つ葉のクローバーなんてファンシーなポイントと黒いガラス玉、それから、流暢な英字。

「ずっと傍に、…?」

グルリと部屋を見回す。俺の部屋だ。
テレビもソファもテーブルもラグもクローゼットも、何もかもがいつも通り。
いつも通り?

「……違う」

クローゼットの横の壁には、何かがかけてあったはずだ。
ソファの左端が好きみたいだった。
テーブルには飲食店顔負けの料理が並んでいて、冷たい水で洗い物をするのを、咎めたんだ。俺が。
だぼついたロンTと裾の長いズボン、が、可愛かった。胸元がたまに見えるのが、扇情的だった。
いつも俺の足元に座り込んで、いっそ腹が立つ程の無防備さで髪を乾かす俺の手に身を任せて。

愛しかった。

「…誰が?誰を?」

そうだ。抱きしめて眠ったのだ。確かに、苦しいと笑う声を無視して。だってそれくらいしっかりと抱きしめていないと、今すぐにでも消えてしまいそうだった。

「は…?何泣いてんだ俺」

大粒のまま頬を転がった涙をぞんざいに拭って、その手の平を見つめた。

確かに居た。
確かに居た。
居た事はわかる。頭も体も心もがそう叫ぶからだ。

だが、顔が思い出せない。
名前が思い出せない。
ただ、可愛かった。綺麗だった。
いつも優しげに俺を見て微笑んで、心がほっこりと暖まるような声色で俺を呼んだ。

あぁそれから、涙がすごく美味しそうだったな。

優しくしたくて痛めつけたくなって、苦しかったんだ。
甘やかせたくて甘やかせてほしくて、いつだってその存在を傍に置いておかないと不安だった。

「閉じ込め、て……いいかって、聞いた…?」

ひたすらに俺を刻み込みたかった。
もし俺に理性なんてものが備わっていなかったとしたら、本気で危なかったなとこっそり溜め息を吐いたんだ。

「――――…」

唇は何かを呟くのに、どうやって音にするかがわからなかった。

あぁ嫌だ。腹が立つ。猛烈に何かを壊したい気分になった。

手近にあった携帯をまた手に取って、覚えのないストラップを握りこんだ。確証はないが、これを壊せば何かがスッキリするような気がしたのだ。

「……っ……」

長方形のプレートが手の平に刺さる。僅かなその痛みを感じて、勝手にやめようとする自分の体にまで腹が立った。

何故。
何故。

「勝手に居なくなってんじゃねぇよ!クソっ……!なんで、なんで…っ…」

お前が居なくなっちまったら誰が俺の飯作んだよ。
誰が朝起こしてくれんだよ。
弁当だって自慢だったんだぞ。
家に帰んの楽しみだったんだぞ。

ソファあんなにでかかったか?
ベッドはこんな、無駄に広かったか?
この部屋はこんなにも、寒々しかったか?

俺は誰の髪を乾かせばいいんだよ。誰が俺から、飲み過ぎ!ってビールを取り上げんだよ。

なぁ、誰を抱きしめて寝ろっつーんだよ。
お前が居なきゃ寒すぎて寝れねぇじゃん。

「ヒナっ…」

訳もわからず、その単語を機械的に繰り返す。
それが何かもわからないのに、堪らなくその言葉が愛しかった。

「ヒナっヒナ…ヒナ……っ」

丸々心ごとどこかへ捨てられたような気分になって、唇を噛み締めた。

帰って来いよ、と言った言葉は、自分でも驚く程弱々しかった。

END
(閉じこめておけば、よかったのか)