瞬間指先が震えた。
喉に何かが詰まった気がして、暫く息を止めていたと思う。
頭の先から足の先まで、確かに何かが走り抜けた。
脊髄を刺激して、心臓に命を吹き付けて。
逸る心を、叫びたくなる衝動を
「悪魔だっ…なんでここに……っ!」
はっきりとそれが耳に届いた刹那、俺は集団のど真ん中を突っ切るように走り出していた。
「小宮山!危ないって…」
「ヒナちゃん!?」
俺を呼ぶどんな声をも、耳に入る事はない。
正確にはきちんと聞こえていたけれど、脳が理解出来ていなかったのだ。理解、するだけの許容量をゆうに越えていたから。
驚く人を掻き分けて、半ば体当たりするように進む。他には何も考えられなかった。悪魔という単語に、まさしく取り憑かれたように。
魂はもうとっくの昔に売却済みなんだから、怖いものなど一つもない。
ただ、
「ユズ…っ」
逢いたかった。
「ヒナ」
今度はちゃんと、俺の全部を喰らってほしいんだ。
集団から飛び出した俺の視界には、校門にもたれて笑うユズが確かに映った。
少し、また背が伸びたのかな。
声も最後に聞いたものより低い気がする。あの時から大人びていたけれど、顔立ちも更に大人に、格好よくなった。
髪も伸びた?でもまばゆい金髪は、最後の夜に触れたそのまんま、で。
「もう泣いていいぞ」
その言葉が皮切りのように、俺の目からは流せなかった今までの我慢が溢れた。
「ヒナ!?」
後ろから、息を切らした陽が慌てて走り寄って来た。そしてダッラダラに泣く俺の情けない顔を見てギョッと目を見張る。
「ど、どどどうした!?何があった!って、え!?悪魔ぁ!」
「誰だてめぇ人を害虫みたいに」
「陽だよ。俺の親友」
しゃくりあげる事もなく俺は笑えた。まさに溜まっていた分を流しているだけな状態のようで、あんまり泣いている自覚がない。
固まった陽をそこに置いて、ざわめく仲間達をも無視して、歩き出す。
腕を広げて待っている姿が、俺を更に高みに押し上げた。
「ヒナ、おいで」
「…うん」
ゆっくりと、その体に思い切り体重を預ける。
ここに居る事を確かめるように背中へ腕を回して抱きしめた。
あぁ。ユズだ。
「…あの日、ヒナが消えた日からずっと、思い出せなかった。ヒナが居た事はわかってんのに、ヒナの事だけ忘れちまった」
「うん」
「悔しくて腹立たしくて、何やってても虚しくて。受験失敗して、親父に海外飛ばされたんだ」
「そうだったんだ」
「でも……いきなりヒナとの記憶が全部、戻った。きっとその日が、ヒナが過去に飛んだ日だったんだな」
ぎゅぅぅ、と苦しくなるくらいユズの腕の力が強まって、その息苦しさを堪能した。
いいんだよユズ。
忘れているのは、どこかでわかってたから。
こうして迎えに来てくれたんだから、結果オーライじゃん。
「遅くなっちまった。……ごめん、な」
「うん、うんっ…うん…っ!」
大好きなんだ、ユズの事が。
「もうぜってぇ離さねぇから」
「うん、」
片口に埋まったユズの唇が、直に肌を擽る。
間違いなくあの時俺が覚えたその感触が、昨日の事のように思い出せた。
「ヒナ…どーゆー、事だ…?」
「あ、陽…」
か細く不安げな声が聞こえて、俺はユズから離れた。あの時よりがっしりとした手で涙を乱暴に拭われる。
「邪魔すんな餓鬼」
「ユズ!そんな言い方はないよ!」
「チッ」
「ヒナ、俺何が起こってるか訳わかんねーんだけど…ちなみにこいつらも」
陽に指差された集団も、まるで打ち合わせたように頭を上下させる。
少しコミカルなその動きに吹き出して、腹に腕を回して背中に張り付くユズをそのままに皆に笑いかけた。
「こちら大河内柚綺。ユズだよ」
「いや、そうでなく」
「なぁに?」
「ヒナー…」
「てめぇ…っ」
「ひぃっ!」
疲れた表情を見せた陽に、ユズがすかさず吠えた。
「軽々しく俺のもん呼び捨てにしてんじゃねぇぞぶっ殺されてぇのか、ぁあ!?」
「ユズ!」
「……だって」
「陽は親友。ユズは…」
恋人でしょ?
そう耳元で小さく囁くと、ほんの少し耳を赤らめたユズはまた背中に顔を埋めた。
離れている間にユズは可愛さレベルを上げたみたいだ。
微笑ましい気分に浸りながら、引き攣った顔の陽に大丈夫と手を振った。