「ヒナタ君は…」
「はい?」

ポツリと落とすように呟くと、真さんは突然満面の笑顔を浮かべた。
どうしたのかと素っ頓狂な顔をする俺を、あろう事が抱きしめて。

「あ、あの…?」
「わかった、信じるよ」
「ホントですか!」
「勿論。未来の息子なんだろう?涼子と僕の」

は、い?と思わず固まる。
嬉しそうな声が頭蓋に直接響く程近い場所で跳ねるように降り懸かる。
肩を押して少しだけ俺を遠ざけた真さんは、そうまるで、死ぬ程嬉しいと言わんばかりにクシャリと顔を歪ませた。

「ごめんね気づかなくて…そうかそうか、ヒナタか…やっぱり涼子が付けた名前なんだね。いつも言ってた、息子でも娘でも名前はヒナタがいいって」
「あ、わっ」
「わざわざ過去に来てまで…なんていい子に育ったんだろう。僕は誇りに思うよ」

きゅう、とまた抱きしめられて、ブンブンと左右に振り回される勢いで肩を揺らす真さんに、否定の言葉は言えなかった。
言えないんだ。違うって。
それはあまりにも、真さんが嬉しそうだったからだと思う。

「おいおっさん」
「ん?」
「……いい加減、行かなくていいのかよ」
「あぁ!そうだね。涼子と仲直りしなくちゃね。せっかくヒナタ君がこうして来てくれたんだから」

勘違いを正す事も共に喜ぶ事も出来ない俺の代わりに、不機嫌そうなユズの声が真さんを止めた。

そうして離れて行く腕に、言い知れぬ淋しさを感じて、緩く首を振る。
時間はそうたくさんないのだ。
この、優しい人をこの世が失うまでに。

アタッシュケースを持ち直した真さんはユズに向かって会釈した後、もう一度俺を見た。

その視線の意味を俺はちゃんと知っていた。
最近は中々会えなくて、電話やメールしか出来なかったけれど、父さんと母さんが俺を見る時の、慈しみを含んだそれ。

父さん、と口から出てしまったのは、泣きたくなるのを我慢する為ではなかった。

「行ってくるね」
「…うん、行ってら、しゃい」

くるりと向けられた背から目を逸らせない。
暗い駐車場から明るい朝陽の中へと消えて行く姿を、最後の最後まで見ていたかった。

「わりぃ。…泣くなよ」
「うん。泣かないよ。…でも…かなしい……」

行かないで、と言ってしまいたかった。
涼子さんを一人にしないで。
一人ぼっちで、逝ってしまわないで。
俺という偽者じゃなくて、本当の二人の宝物を、目一杯愛してあげてよ。

「あのおっさんは…その、いつだ」
「今日の夕方の飛行機に乗って、墜落する。…たくさん、人が死ぬんだ。……どう、して」

どうして、わかっているのに。
わかっていても、何一つ止められない。

息が止まりそうな程キツク抱きしめられながら、今すぐ走り出しそうな自分を必死で戒めていた。

でも今は沈んでいる場合じゃない。きっともうあの二人は大丈夫だと思うけれど、最後まで見届けたい。

そう思った俺は、ユズの手を引いてあの河原へと向かった。
始終無言でももう気にならない。
言葉よりも視線よりも、組んだ指と手の平の体温は確かだったから。

もうすぐ終わるんだね、俺の目的が。
もうすぐさよならだね。ユズ。

電車の中から見える流れゆく景色も、慣れた道も、あぁなんて綺麗。

通勤通学ラッシュを終えガランとした電車の中で、二人並んでシートに座ってユズにもたれ掛かった俺は、泣いた。

「…ヒナ」
「ご…ごめん、ヤダよ…俺、ヤダ…っ」
「……ん」
「帰りたく、ない…っユズに忘れられたくなんかな、いのに、」
「……あぁ」
「ヤダよ…っ」

ボロボロと頬を伝って滴る涙が、ユズの黒いジーンズに濡れた染みを描いていく。
ユズに肩を抱かれたまま折り重なるようにして、俺達は目を閉じた。

ガタンゴトン、電車はスピードを上げて走る。
薄く開いた視界には、ふんわりと舞い落ちる雪がガラス越しに見えた。

いつしかユズのジーンズを濡らす水滴は、俺だけのものではなくなっていた。

+++

あぁ久しぶりだ、と溜め息が零れた。
泣き過ぎて火照った頬に、雪が降る冷たい気温は気持ちがいい。

「ここが未来のヒナが居る土地?」
「うん、そうだよ。はは、二週間ぶりだぁ」

お互い少し掠れた声で笑い合う。
男二人手を繋いで目を赤くする姿は、他人から見ればどう映るのだろう。

どう思われても構わないから、どうせならこの愛しさを見せ付けたいなんて思った。

「ここをね、真っ直ぐ行くと河原に続いてるんだ。結構斜面は急なんだけど、川がすごく綺麗」
「そか」
「うん」

擦れ違う主婦の人に不躾な視線を送られながらも、全く意にも介さず河原へと進んで行く。
本当に河原しかないからあんまり人が通らなくて、俺は静かなこの道が好きだった。通学もそうだし、あぁ、買い物帰りに時々座り込んで川眺めてたっけ。

「それでね、スーパーの袋の中から大根が転がっちゃって」
「川にボチャン?」
「はは、よくわかったね」
「ヒナの事はわかるっつーの。馬鹿じゃね?」
「酷い!」

ブンブンと大きく繋いだ手を降りながら、涼子さんが見つかるまで二人ゆっくり歩いた。
今朝のような気まずさはいつしか無くなっていて、思い出話しを、延々と。

こうしてたくさんの事を話せば、その中の一つくらいは覚えていてくれるかなって、狡い俺が囁いていた。