昼間だというのに、カーテンを開けても部屋は薄暗い。
どんよりと重く泣きそうな雨雲と、きっと、ユズと俺の心境の変化のせいでもあるのだろう。

一昨日までなら不思議な程会話の絶えなかった空間に流れるのは、ニュースキャスターの淡々とした声と、俺の手元から聞こえる水音だけだ。

悲しい、と思う。
寂しいとは思わなかった。

キッチンとリビングの距離はほんの少しで、同じ室内なのだから寂しくはない。背中も見えれば、会話も出来る。
想いも、一緒だと昨日知った。

でも、だからこそ悲しくて堪らない。

ニュース画面の左上に表示された時間は、朝の7時50分。
俺の向かう場所、目的の時間は8時30分。後40分。ゆっくり歩いても間に合うだろう。

そう、涼子さんの元に。

それが終われば、終わってしまえば、あっという間に俺はユズの記憶から消えるのだろう。
好きな人の記憶から存在を消去される痛みは、自分の存在価値がないのだと悟った懐かしい記憶よりも、鮮烈な苦痛を齎した。

生暖かいお湯を流す蛇口を止めて、洗い物の際シンクに飛んだ水気と自分の手の水分をタオルで拭う。
そう言えば最初の夜、慣れない場所で夕飯の片付けをする俺に、ちゃんと手を拭かないと荒れちまうぞって、どうしてだかユズが慌てていた。

記憶の破片が転がり過ぎたこの部屋。どこを見ても泣きたくなって、そっと目を閉じた。

「ヒナ」
「ん?」

水の音が止んだからか、ユズが振り返って手を招く。
昨夜から会話が少な過ぎて、あの声で名前を呼ばれる事が久々なように感じた。同時に跳ねる心臓は、主に似て臆病だ。

ソファに近付くと隣をポンポンとユズが叩く。
そんな合図をされずとも当たり前のように腰掛けれたその場所が、今の俺には入り込めない領域に思えた。

「占い」
「うん」
「何座?」
「天秤座だよ」

ユズは獅子座だよねと問うと、小さく頷く。
それ以上会話は発展しなくて、でもこんなに詰まる事なく話せた事に安堵した。

爽やかな背景と、占いのランキングをお姉さんキャスターが楽しそうに読み上げていく。
一位と十二位だけが最後に発表されるのを、ほぼ毎朝ユズと見ていたからわかっていた。

二位から十一位までが一覧で表示され、お互い無言のままその中で自分の生まれ月の星座を探す。
そして顔を見合わせて、堪らず苦笑を漏らした。

「…ないね」
「だな…」

どちらが一位でどちらが十二位なんだろう。
占いに興味がないと言えば嘘になるし、丸ごと影響を受けるかと聞かれればそうでもない。
だから出来れば、こう見えて案外朝の占いを気にするユズが一位であればいいなと思った。

どこか泣きたい気持ちのまま画面を見つめていたら、突然ユズがテレビのリモコンを落とした。
驚いて目を丸くする俺に笑って、手を握る。暖かいというよりその手は熱くて、また心臓が跳ねた。

「ヒナと初めて会った日な」
「う、うん?」
「十二位だった。何もかもうまくいかねぇだと。でもヒナと会えた。いい事尽くしだろ?」
「そう、かな」
「…信じねぇ、もう」

目を緩く伏せて呟く。
それは何かを思い出すように、決意するように。

「あんなふざけた占いより、ヒナを信じてぇんだ。…行くんだろ?」
「う、ん」
「俺も行く。いっしょに」

ゆっくりと視線を上げたユズが、握ったままの手を祈るように額に当てた。
その表情があまりにも悲痛すぎて、ただ頷くしか出来なかった。

俺の何を信じるってゆうの。
こんな、危ういとさえ言える存在の、何を、

それでも、ねぇユズ。嬉しい。

「うん。…行こ」

俺も祈るよ。
ユズが俺を信じると言うならば、俺はユズの何もかもを信じる。
例えその祈りが俺だけのものになる時が来てもそれでも、その願いがあれば俺の存在が確立すると思わない?

漠然と、ユズと過ごした時間と、ユズを想った気持ちと、そしてユズを。
俺の全てをユズに繋いで、そうしたら、きっと。

毎日この手の平の体温を思い出せば、確かにそう思えると、思った。

+++

ひゅるりと擬音が似合いそうな冷たい冬の風が、無言のまま歩く俺達のコートをはためかせて通り過ぎた。
いつもならただ冷たいだけで不愉快なそれも、今はまるで、繋いだままの手の熱さを思い知らせているかのよう。
そんな妄想を繰り広げてしまうくらいに俺はユズを好いていて、それはきっと、ユズも同じなのだと自惚れた。

「…どこ?」
「ごめん、わかんないや。けど大丈夫」
「そか」

一見頼りない俺の言葉に、ユズは僅かながら確かに微笑んだ。
その瞳の甘ったるさに、酔いそうだ。

迷いなく足は進むけれど、土地勘のない俺には今どこをどう歩いているかサッパリだ。
でもやけにしっかりと、焦げ付くように焼き付いている涼子さんの記憶と想いに身を委ねれば、確実にその場所へと辿り付ける事を理解していた。

そう、この道を毎日、歩いていた。
飽きる事なく銀色の鍵を握りしめて、今日の夕飯は何にしようかと考えて緩む頬を抑えて、愛しい人の笑顔ばかりが頭に浮かんで、そんな自分までもが愛しくて堪らなかった。

「あはっ…はは…、」
「ヒナ?」
「ごめん…はは、そっかぁ…」

突然肩を震わせて笑う俺を不思議そうに見遣るユズの手の平の力が強くなって、それがまた俺を可笑しくさせた。

そうだね、涼子さん。

愛しい人の傍というのは、こんなにも日だまりに似た幸せをこれでもかってくらい詰めていて、手放せそうにない。
わかるよ、わかる。
変わらずに明日も、明後日も、一年後も十年後もそれこそ死ぬまで、ううんもしかしたら死んでも、傍に居たかったんだよね。居られると、疑う余地すらその心にはなかった。

わかるよ。

だからこそ、離れるという現実が悪夢に思えたんだね。