「ユズはこんなにも優しいのに。…怖いとこなんて、見つからない」

そうでしょう?と同意を求めて榊さん達を振り返る。
優しく俺の体を包む腕は、さっきまで人を殴っていた腕と同じ腕だ。それなのに、この世で一番安心出来る場所だと俺は胸を張れるような気がした。

「…そうか」
「小宮山………」

フッと笑った榊さんが、自分の指からメリケンサックを外して後方へと放った。
その途端、外野からは手を叩いたり声を上げたりと喜びの歓声が沸き上がる。

「ヘルはこれで解散。大河内、今日からお前がトップだ」

あっさりと引き下がった榊さんは、原田さんの肩を借りながら立ち上がる。
それからゆったりと歩み寄って来て、原田さんのブレスレットの内、黒地にシルバーの散りばめられた物を取り俺の腕に嵌めた。
太めのそれはカチリと音を立てて。

「トップの傍らに控える人間の証だ。Bloodyの大河内の傍らは、お前でないといけない」

お礼を言う場面でも、謝罪の場面でもない気がした。
無言のまま見つめ返すと、力無い笑顔を浮かべた榊さんは、コキコキと首を回し鳴らした。

「原田帰るぞ。俺は疲れた。…たまにはテスト勉強でもしてみるか…なぁ雄大」
「あ…はい!はい!はい!」
「馬鹿か。返事は一回でいい。もう敬語もいらん」
「おおおう!……また、どこかでな。小宮山」

俺のした事は、間違いだったのかな。正しかったのかな。
よく、わからないんだ。

ただ私情のみで動いた短絡さは、咎められても仕方がないと思う。
でも。

肩の力を抜いた榊さんと、嬉しそうな原田さんを見ると、悪くはなかったんじゃないかって、思いたくなった。

+++

「ごめん、ね…」

ポツリと、お互い無言の中俺の呟きだけが落ちる。
それは大層情けなく掠れてしまっていて、まるで今の心情を詰め込んだような声色だった。

あれから何も話さないユズに対して、どう接したらいいかがわからない。
帰り際タロちゃんは、優しくしてあげてねー!と軽く笑い飛ばしていたけれど、そもそもがそんな雰囲気ではない。

ソファに沈むユズの割れた腹筋をまじまじと見る気にもなれず、手の平でなるべく温める努力をした湿布を貼付ける。
まだ若干冷たいだろうにピクリとも動く事なく、長い前髪で顔が見えない程ユズは俯いていた。

じわりと、性懲りもなく涙が滲む。

どうやらユズと出会ってから、俺の涙腺はどこかおかしくなったみたいだ。
こんなに泣き虫だったろうかと考えてみるけれど、少なくとも意識して堪える程泣きたくなる場面など小学生以来だ。あの時は、感動ものの映画を姉と見に行ったからだけど。

二枚目の湿布を貼り終えて、ユズの服を下ろす。
救急箱を膝に置いた状態のまま俺も俯くしかなくて、不自然な程の静寂に耳も頭も、胸さえもが痛んだ。

「ユズ…ごめん…余計な、事、したね」

でも、後悔はしてないんだよ。
嫌われるのが嫌だって、以前俺は泣いたけど。

ユズが居てくれるなら、嫌われても、後生会えなくても、後悔なんかするはずがないんだ。

気付いた。
ユズと出会えた奇跡にこそ、感謝しなければいけない事。

これ以上何を望む。
高望みをするだけの資格、俺にはないじゃないか。

涼子さんの為に過去へ来た。
その過程で、一生分とも言える幸せに巡り会えたんだ。
それだけで俺は、きっと世界で一番幸せ者なのだから。

…わかって、るんだ。
しつこい程沸き上がる涙も、疼く心も、何を示しているかなんて。
それを必死で押し止めようとしているのは、他でもない、俺自身で。

手の届かない人。
そう思い込めば、きっときっと、きっと、俺はユズを思い出に出来るはずなんだ。
そう思っていたのに。

「…ヒナ」

ビクッと肩が跳ねる。
そんな俺に構う事なく、ユズの手の平はそっと側頭部を覆った。
優しく、なのに抗えない力で、俯いていた顔を上げられる。
ソファの上から見下ろしてくるユズの瞳が、あつい。

まるで焼かれてしまうんじゃないかと、意味のない不安が横切った。

聞くなとどこからともなく警鐘が鳴り響いた。けたたましいまでの脈動が、覚悟を無駄にするまいと。

「閉じこめても、いいか」

やめて、そんな事言わないで。

離れたくなくなる。
帰りたくなくなる。
家族も未来も、涼子さんとの約束も忘れて。

閉じこめてほしくなるから。


徐々に近付いてくる端正な顔を避ける事は出来た。
頷く事もなく、否定する事もなく、曖昧な態度を保つ俺をユズはどう思っただろう。

違和感なくぶつかった唇は、俺が心の底から求めていたものだ。
薄く開いた視界には、苦しげに眉を寄せたユズの悲しそうな表情が映る。

ごめんねユズ。
今は何も言えないんだ。

口を開けばきっと、悪くもないのにユズを批難してしまいそうで。

きっと俺の事を忘れてしまうユズを、責めたくなるんだ。

閉じこめたいと言うなら、忘れないでよ。
未来に帰った俺も見てよ。

一緒に生きてよ。
ユズ、こんなにも君が好きなのに。

もう思い出になんて、出来なくなってしまった。