今まで人質らしからぬ待遇をされていた俺を漸く本来の用途に使用出来たからか、拘束してくる男の鼻息は興奮したように荒い。
喉仏に当てていた果物ナイフをヒラつかせて、見せ付けるようにまた押し当てた。

「こいつ、お前のオンナなんだろォ?」
「は、ちげぇな」

ポケットに手を突っ込んだまま、ユズが嘲笑する。
周りはいつの間にか静寂を保ち、それでもヘルのメンバー達はどこか勝ち誇ったようでいた。

否定された事が悲しいなどと、思ってはいけない。
これだけ迷惑をかけたんだ。
そもそも俺は男だから、傷付いたなんて、気のせい。

涙腺の出口ギリギリまで溢れて来た涙をぐっと堪えて、ユズから目を逸らした。
頷いてほしいなんて、思っちゃ、いけないんだから。

「オンナじゃねぇ。嫁だ」
「!」
「こちとら嫁の晩飯の為に腹空かせてんだ。さっさとその汚ぇ手離せゲスが」
「汚ェのはてめェの方だろうがよホモ野郎!」

嫁と言われた事に喜びが沸き上がる。
こんな場で、不謹慎窮まりない。それでも現金な事に涙は引っ込んで、男の酷い言い草に腹が立つ余裕は出来て来た。

ユズは笑う。
何が可笑しいのかと、男が狼狽えたその時。

「…お客様だって言ったのもう忘れてんのか馬鹿がっ!」
「っく……はっ…原田さ…!」
「原田さん!?」
「わりぃ、怪我はねぇか?」

背後で何が起こったのか、突然俺を解放し倒れ込んだ男の代わりに原田さんが現れた。ナイフが甲高い音を鳴らして地面に転がる
その拍子に緊迫状態を保っていた屋内の人達は、激しい怒号を吐き出しながら再び殴り合いを始めて。

その異様な雰囲気に圧倒されながらも、俺はひたすら頷いてみせた。

「出て来ちまったのは仕方ねぇ。大河内んとこまで連れてってやる」
「必要ねぇよヒナに触んな金魚の糞野郎」
「ユ、ユズ…っ!」

結局手を煩わせてしまった申し訳なさから俯いた俺の頭に、慣れた手の平が乗る。そして耳に心地好い低音と、優しい香り。
あぁ、またほら。泣きそう。

ユズは俺に向かって酷く優しく顔を緩ませて、背後に隠すように腕を引いた。

「榊出せ。俺の嫁使いやがって、ただじゃ済まさねぇ」

背中越しに、ユズが怒りの表情を浮かべているのを察せる程、その声は低い。
思わず身を震わせた俺は、けれどその背中の大きさに安堵していた。

「おーくーん!外は完了だよーん!」
「温い」

タロちゃんとマサ君の声が、どこからか聞こえる。それだけじゃない。

悲鳴も、衝突音も、骨のぶつかる硬質な音さえもが、響いていた。

「俺はここに居るが?」
「よぉ、榊。うちの嫁が世話んなったな」
「大した持て成しも出来んかったがな」

トン、と後ろ手にユズが俺を突き放す。
勢いで後ずさった俺の拓けた視界には、余裕の表情で立つ榊さんとその傍らの原田さんが映った。
そこで気付く。

かなりの人数の、恐らくBloodyのメンバーであろう人達が、工場見学中の小学生の如く固まって座り込んでいる事に。
そして、至る所に、呻く人の山。
現実になったのだ。
原田さんの、劣勢の言葉が。

「ヒナタちゃんヒナタちゃん、こっちこっち!」
「え、あ、タロちゃん!?」
「危ないから下がってようねー!」

突然俺の腕を引いた主は、タロちゃんだったみたいだ。
さっきまでどこに居たんだろうかと考えている間に、座り込んだ人達の中に引っ張り混まれる。
その中にはユズのクラスの人達もいて、まるで教室の中でかけてきたように軽く声をかけられるから、変に混乱してしまった。
どうして皆、そんな楽しそうなの。

「お帰り」
「た、ただいま、マサ君…」
「ここに居たら安全だからね!…おーくん、勝つよ。悪魔だからね」

真剣味を帯びたタロちゃんの瞳と声に悪寒が走る。
ヘルのメンバー達と従う人は違えど、同じなのだ。

崇拝とも言える、その熱い眼差しが。

気持ち悪いなんて思わない。
ただ、異様だと、思った。