「乾杯。…ユズ、おめでと」
「ん」

琥珀色の液体の中で弾ける炭酸をぼぅと見ながら、傾けられたユズのグラスに軽く合わせる。
何も考えずにそれを口に運び喉へ通し、胃が急に熱くなって初めて、俺は驚きの声を上げた。

「ユズ!?これお酒!?」
「え、何、気付かねぇとかどんだけ」
「俺に飲むなって言ったのがユズだからだよ!」
「無礼講。甘いのにしたから飲めんだろ。ほら飲め飲め、そんで食え」
「ちょ、まっ…」

ご機嫌なユズは一口しか減っていない俺のグラスに、並々とビンを傾けてお酒注ぎ足した。
止める暇もなく再度一杯になったグラスに溜め息をつく暇もなく、取り皿にもかいがいしく料理を取り分けてくれる。
呆然とその行程を眺めていたけれど、食べ切れないであろう量に焦って慌ててユズの手を止めた。

しかも肉類ばっかりだし。
肉食動物のユズには普通かもしれないけど、俺は胃が悲鳴を上げてしまう。

「俺野菜の方が好き…」
「んな事ばっか言ってっからヒナはゴボウなんだ。肉食え肉。草食動物かてめぇ」
「シマウマでも羊でも何でもいいからヤメテ」
「ならメェメェって鳴いてみやがれ」
「メェメェ!」
「………」

自棄になって発した羊らしくないメェメェは、自分でも思うがかなり可愛くない。
真顔で黙り込んだユズにやっとこさ羞恥心が沸いてきて頭を抱えるしかなかった。
もういいどうにでもなれ、とグラスを傾けて、お酒を味わう。
ユズが甘いと言っただけあって、それは殆どジュースみたいな味だった。最後に少しアルコールの苦みはあるが、初めてでも飲みやすいと思う。

何だ、案外美味しいものもあるんだなと嬉しくなった俺は、既にユズの事など眼中になく。

「…もっかい」
「ん?」
「もっかい鳴け」
「は?」
「ほら羊さん。鳴いてみ?メェメェって」

テーブルにグラスを置く俺の手首を突然ガッシリと掴んだユズは、びっくりするくらい満面の笑みでそう宣った。
もう酔ったのかと思ったが、ユズのグラスは乾杯の一口から減っていない。

羊が好きなのだろうか。
だとしたら、王様であるユズの言う事は聞かなければいけない。
恥ずかしさはあれど、それを望まれているのなら話しは別だ。

もしかしたら、もう自分も少し酔っていたのかもしれない。
俺はニッコリと笑い返して、何の躊躇いもなく言ったのだから。

「メェメェ」
「うわ!もっかい!」
「メェメェ!」
「ヒナ超かわいい」

ヨシヨシと俺の頭を撫でる大きな手の平が心地いい。
不思議と俺はその時可愛いと言われる事すら嬉しくて、ユズの手の平にさえ酔ったように求められるまま羊の鳴き声を真似し続けた。
頭の片隅では馬鹿みたいと笑いながらも、離し難かったんだ。
一々撫でてくれる体温も、可愛いと向けられる言葉も視線も。

+++

膝に乗る小さな頭を飽きる事なく撫でて、それでもヒナが起きない事に安堵している。
それ以上に起きてほしいと思う俺は、大概矛盾していて正直だ。

出来心で飲ませてみたチューハイを、ヒナは存外気に入ったようだった。ついには手酌までして、俺が止める暇もなく。

「ったく…気持ち良さそうに寝やがって」

そんな事を言いながらも、きっと俺の顔は気持ち悪い程緩んでいる。

ヒナが俺を見ているのが嬉しい。
ヒナが俺を呼ぶのが嬉しい。
ヒナが隣に居る事が嬉しい。
ヒナが、ヒナが、ヒナが。

そんな風にヒナの事しか考えなくなって、それなのにそんな自分が堪らなく誇らしい。

こうやって膝枕をしてやれる事も、髪を乾かしてやれる事も、毎日ヒナの作った料理を食べられる事も。

随分前からヒナに骨抜きなのを、ヒナはちゃんとわかっているのだろうか。

いや知らないんだろうな、と思う。そんな鈍いところも愛おしいけれど、少しだけ、腹立たしい。

本当ならそんな、安心しきった顔で寝させてなんてやらないはずなのに。

「なぁ、プレゼント、もらうぜ」

柔らかい髪を掬い上げて後ろへ流す。
女っぽくはないけど綺麗だと表現するしかないヒナの顔が、惜し気もなく曝されて。

体を屈めて、淡く寝息を漏らす唇へ。
後数センチ。

「…こっちで我慢してやらぁ」

額へ押し付けた唇。

彼は、こうして毎晩俺に愛されている事を、知らないまま。

二週間なんて短い期間で離してやる気は毛頭ない。
言うなれば、ヒナ。

お前は路地裏で俺を下敷きにした時から、この先ずっと。

「俺のモン」

もう暫くは、安心した顔で寝かせてやんのもいいか、なんて。

+++

「ん………、」

沈んだままの体が、湖の底で目覚めるようなおかしな感覚。
どこもかしこも温かくて、もう一度瞼を閉じてこの温もりに溺れていたくなる。
けれどゆっくりと室内の明るさに気付いた俺は、唸る欲求に逆らうように目を開いた。

「朝…?」

自分の呟いた独り言が妙に掠れている。
自覚した途端激しい喉の乾きに襲われて、その不快感に思わず眉を潜めた。

とりあえず起きて水を飲もう。
それから朝ご飯の支度をして、お弁当を詰めて、ユズを起こさなければ。
鈍った思考でいつも通りの朝を描く。後数日でなくなってしまう平和な日常に、未練がないとは嘘でも言えない。
だから残る悔いを少しでも減らそうと決意したのは、つい最近だったと思う。

どの道俺は、ユズを思って泣く事になる。それならその後に思い出せる思い出が、たくさんほしいのだ。

ぼんやりとした頭はすぐにまどろみそうになって、慌てて俺は体を起こそうとした。
冷えた空気へと身体を曝すのは勇気がいるけれど、それがユズの為ならばちっとも苦にならないのだ。

けれど起こそうとした身体は、やけに重い腹部に邪魔されて。

「ん…?」

羽毛布団に埋もれるように寝ていた体制から、何とか身をよじり起き上がる。
そしてボスリと柔らかい音を立てた場所を見て、途方もない愛しさに目を細めた。

「そりゃ、暖かいはずだぁ…」

ユズが抱きしめていてくれたのだから。

目覚めた時のあの温もりはユズのおかげだったようだ。
丸く抱き込む体制で眠るユズは、知らない間に腕枕までしてくれていたらしい。

「腕痺れちゃうのに」

申し訳ないという気持ち以上に、嬉しさがじわじわと心を侵食していく。布団から出た腕をそっと中に戻して、寝顔を見つめた。

鋭い眼光も今は伏せられていてどこかあどけない。
顔にかかった前髪を避けてやると、むず痒そうにユズは首を動かした。

「ユズ…誕生日おめでと。…ユズに会えて良かった」

生まれて来てくれてありがとうだなんて恥ずかしくて言えないけれど、出会った奇跡に素直に感謝するよ。

君に教えてもらったものを、生きる意味にしてもいいかな。

衝き動かされるままに露出した額に唇を寄せて、俺はベッドから出た。

びっくりしたんだ。
思わず口から出た言葉が、しっくり来過ぎていて。
でも、でも。

そんなのはダメだよね。


「大好き、か…」

煩悩を掻き消すようにキッチンへ逃げ込んだ俺は知らなかった。
嬉しそうに頬を緩ませたユズが、自分の額に触れていたのを。