「ヒーナッ」
「う、わぁぁ!あぶ、危ないよユズ!包丁包丁包丁!」
「アワアワすんのも可愛いけどとりあえず、置けば?」

トントンとリズムよく包丁を鳴らして、段々とそれに気分が乗ってきた頃、唐突な背中への衝撃に俺は大袈裟な程驚いた。
中断して包丁を置けばいいものをパニックになった頭はそれに気付かず、思わず振り回した俺にユズが冷静にツッコむ。

「そ、それもそうだね…あービックリした。ユズどうしたの?」

野菜を刻んで濡れた手をタオルで拭って、屈んだまま張り付くユズを振り返る。
その姿勢が疲れたのか膝立ちになったユズのつむじが目下に晒されていて、そのあまり見れない角度からの光景に頬が緩んだ。
ユズは左回りらしい。よく見れば金色の根本はほんの少し黒く伸びていて、それにしてもよくこんなに綺麗に染まるもんなんだなと改めて思った。

眩しい程煌めく金色がキッチンの照明に照らされて輝きを増す。
それは留まる事を知らないかのように、衰える事すら知らないように。

そう思ってしまうのは、俺がユズを大好きだからかもしれない。

「今日は甘えてぇ日なんだよ」
「えー?どんな日だよそれ」
「馬鹿にしてんのか」
「してないよ、嬉しいもん」

ぐずるように唇を尖らせるユズを見ていたら、少しその垣間見える幼さが可愛らしく思えてしまう。
俺を心配してくれる姿も怒る姿も、どこからどう見ても男のそれで、時として恐怖すら俺に与えていたというのに。

ユズの顔はたくさんある。
そのいくつもを見せてくれて、でも、全部の中のいくつを、俺は知っているのだろう。

「もー。ホントどうしたの?」

何か今日のユズ可愛いよ、と口に出すのは憚られて咄嗟に噤む。
指先でワックスが付いたままの髪を一房摘み上げると、ふわりと整髪料の匂いがした。

「今日誕生日なんだよ。だから、俺王様」
「へぇ、そうな、ん、…………ぇえっ!?」
「王様の言う事は絶対だぜー」

腹部に頭を押し付けてくるユズは可愛い。非常に可愛い、が!

その台詞は王様ゲームの時に言うべきじゃないかとツッコムよりも、俺は先程軽く告白された衝撃の事実に顔を青くした。

「今日、誕生日!?」
「あ?うん」
「どうしてもっと早く言わないかな…っ!?」

未だグリグリと押し付けてくる頭に軽く手を置いて、冷蔵庫の中身を思い出す。

誕生日と言えば夕食は手の込んだもの、と小さな頃母に植え付けられているからか、ユズの好きな手の込んだ食べ物が出来るだけの材料があるかと思案する。

「ユズ!何食べたい!?」
「ヒナ今作ってんじゃねぇの?俺ヒナが作ったなら何でもいい」
「誕生日なんだよ!?もっと早く言ってくれたら頑張って準備したのに…!」

時計はもう結構な時間を指している。ユズが学校から帰宅して時間が経っているのだから当然だ。
今から細々した料理を作る時間はない。

そう歯噛みする俺を見て可笑しそうに笑い、ユズは立ち上がった。
俺の腰辺りに当たるシンクに手を付いて、覆いかぶさるように顔を覗き込んでくる。
ふと見上げると細まった瞳がじっと俺を見ていて、そのあまりの近さに思わず顔を引いた。

「避けてんじゃねぇよ」

そんな俺の反応がお気に召さなかったのか、不機嫌そうに顔を歪めたユズは長い指で俺の顎を捉えた。
抗おうと思えば出来る程度の力で施される拘束は、どこか俺を試しているみたいだ。

その態度が、言葉とは裏腹に「逃げたいならどうぞ」と言っている気がして、体の力を抜いた。

いざ両手離しで放られると、不安になるのは俺だ。
それに至る理屈はよくわからないけど、逃げて後悔するだろう事は理解していた。頭のどこかで。いや、もしかしたら心のどこかかもしれない。

一度下げた視線をまたユズの黒い瞳に映すと、不安をありありと顔に浮かべた俺自身がその中に居た。
そんな綺麗な黒の中に、俺が入り込む、なんて。

「そう。いーこ」

顎を捉えている手とは反対の手が後頭部を撫でる。
いつの間にか馴染んだ体温が、触れてしまえば離し難いと奇妙な感情を湧かせた。

息遣いがわかる程、ユズの睫毛を数えられる程の至近距離でユズが笑む。
こんなにもアップなのに見つからない欠点を、俺は自棄になって探そうとしていた。

「今日は晩飯作らなくていい。出前頼むぞ。で、ヒナは俺を甘やかせ」

ツン、と鼻先が触れる。
ぼやけていてもわかる射抜くような視線に心すら絡め取られたまま、俺は至極当然のように頷いた。
王様の命令は、絶対だ。
でも本当は、ユズの命令だから絶対なんだ。

この正体不明な感情を、俺は探すべきなのだろうか。
人知れず熱くなったり冷たくなったり、時には潰れるんじゃないかと思う程心臓を締め付けたりする、犯人を。

わからないままでいるのと、知ってしまうのは、どちらが平和なんだろう。
それは、知るべきなのか、知らなければそれでいい、ものなのか。

カケラは手の中にあるような気がするのに、その全体像が見えて来ないのは何故?
もしこのままカケラのままのナニかを持って帰ってしまったとしたら、俺は後悔するのだろうか。
いや、するのだろう。
それがわかっていながら、何故。
俺はその全体像を想像しようとしないのだろう。

ここ暫く考えていた事をまた掘り起こしても、出てくるのは疑問ばかり。いい加減糸口の一つや二つ見つけてもいいと思うのに、それすらを拒絶する心のせいで一歩も進まない。

「…ヒナ?」
「っ!はい!」
「準備出来たっつってんのに何ボーっとしてんだ。ほら、祝ってくれんだろ?」

BGMでしかないバラエティ番組を一応視界に入れながらも思考に耽っていた俺の隣には、既にユズが腰掛けていた。
両手に持ったグラスの内の一つを俺に差し出している。

王様の命令その一、座ってろ、を忠実に守っていた俺は、いつの間にか来ていた出前料理に驚きながらも顔には出さずグラスを受けとった。