「あ…り、がとうご、ざいます」
「ん」

俺が頭に昇った血のせいでそろそろ意識飛ぶな、と思い始めた頃、悪魔に放り投げられた場所は予想外に柔らかいベッドの上だった。

目を閉じていた俺にはここがどこかさっぱりわからなかったが、悪魔が当然のように冷蔵庫や食器棚を漁っているところを見るとどうやら自宅のようだった。

青い色で統一感のある部屋はどうやらワンルームマンションのようだ。
とは言え一般的に想像出来るワンルームとは部屋の広さが全く違う。
例えるならばテレビで紹介されるような別荘の、リビングダイニングと同じ位の広さだ。
俺の今のアパートの部屋が六畳だから……

「20畳くらい…?」
「23畳。おら、飲め」
「わっ!あ、ありがと、う…?」

23畳ってどんだけなんだよ、と思う暇もなく頬に押し当てられた冷たさに飛び上がった俺を悪魔は少し馬鹿にした目で見て、隣に腰を下ろした。
手渡されたのはオレンジジュースで、悪魔が口につけているのはどこからどう見てもビールと書いてある。
…意味、わっかんないな。

とりあえずその冷たさをふらつく頭を冷やす事に使う為額に押し当てて、人生史上最大とも言えるだろう溜め息を吐き出す。

それだけで胸にわだかまっていた焦りが薄れる気がするから不思議だ。

本当は何故ここに連れて来られたのかってゆう大きすぎる謎も、今現在の息の詰まりそうな沈黙も、目前は悩みだらけなのだけれど。

カチカチと秒針が時を刻む音と、車道を走る車のエンジン音。
そんな些細な音しかない空間の中で、俺はジュースのプルタブを開けてそれを一口煽った。
程よい甘さの液体が喉を潤しながら食道を通り、胃に流れ込む。
じんわりとした冷たさが広がる気持ち良さに思わず目を閉じて、その余韻に浸った。

「わりぃな」
「え、何が、でしょう」
「追っかけまわしたし。持って帰ってきちまったし」
「そう…ですね」
「まだ頭痛むか?」
「いえ、もう大丈夫、です」

なんだろう。
会話が成立している気がする。

最初に感じていた恐怖感は今は殆どなく、悪魔はどこか幼さの残る顔でビールを煽っている。

それもそうか。

俺の知っている悪魔より、ここに居る悪魔は少なくとも幼くて、もしかしたら高校入りたての可能性だってある。
本来ならば俺の一つ上の学年のはずの彼が、タメ、或は年下かもしれないと思うと不思議だ。

「俺は大河内柚綺(おおこうち ゆずき)。お前は?」
「えと…小宮山日向、です」
「ヒナ、ね。俺の事はユズでいい」

そういって悪…ユズは再びビールを煽り、それをテーブルに置いて俺に向かうよう座り直した。

威嚇こそしていないものの、その瞳は真剣で威圧感を持っていて、俺は慌ててジュースをテーブルに置いてユズに向き直った。

殴られるとか、そんな危機感は感じない。
幽霊が見えたり触れたりする俺の第六感は割と鋭い方だと自負しているから、そっちの心配はしていない。

けれど、じゃあ何?と得体の知れない不安が俺の心を包んだ。

「ヒナは歳いくつだ」
「え?そ、そんな事聞いてどうするんでしょう…?」
「いいから答えろ」

強く言われて怯んでしまう。
やはり悪魔だ。この通り名をつけた人物はよくわかっている。
名前を言ってしまったんだから、歳を言っても問題はないだろうか?
今は高校の制服を着ているし…それに、涼子さんの用事さえ終わったら俺は元の時間に帰るんだ。
もう会う事もない。
そう思うと、俺の心は現金にも弾んだ。

久しぶりなんだ、こんなにもたくさん、生きてる人間と会話をするのは。

「…高二です」
「その制服…高校は、」
「××高校、だよ」
「ふぅん……どこに住んでんの?」
「高校から歩いて10分のアパート…だけど」

それがどうかした?と首を傾げると、ユズは暫し腕を組んで考えに耽った後、唐突に顔を上げて笑った。

金髪で装飾品がいっぱいで、ほぼ私服のような制服で。
けれどその無邪気な笑顔は、つられて笑いたくなる位に柔らかかった。

「で?」
「え、で?って…何が…?」

ニコニコと笑う表情は無害そうなのに、声色はひたすらに強い。
何か有無を言わせない問い掛けをされていて、それについてユズがとても楽しんでいる事だけは伺えた。
何だ。ユズは何を俺に聞いている?

背中を流れる冷たい汗が、本能的に危機を感じとっている事は確かだった。

そしてユズは言ったのだ。
はっきりと。

「で、ヒナは何年先から来たんだ?」

そう、言ったのだ。