過去に飛べると気付いたのはつい最近だった。
その時はたまたま、涼子さんとは正反対な幽霊に無理矢理飛ばされたというか。
いきなり話し掛けて来たかと思ったら付き纏われ(つまり憑かれてたんだけど)、家に上がり込んだ途端自分の成仏出来ない理由を述べられ、

「と、言う事だから頼む、少年」

と一言俺に笑いかけて過去へ飛ばしたのだ。なんとも積極的なリーマン幽霊だった。
彼の心残りが、トリマーショップに預けた飼い猫を迎えに行ってやれなかった事だったからすぐに帰ってこれはしたけれど。

「そう言えばあの猫ちゃん元気かなぁ…親戚の人、可愛がってくれてるかなぁ…」
「お前、猫の心配より先に何か言う事はねぇのか」
「はぇ?……ぅわぁっ!誰だあんた!」
「お前がそれを言うか。おら、どきやがれってんだ」
「わ、わ、あ、すいません!」

ぼんやりと初めての時空移動の思い出に馳せている俺に声をかけて来たのは、一人の男だった。
どうやら飛ばされて変な所に落ちたのか、あの河原ではなく静かな路地裏みたいだ。
しかも俺の体が全く痛まないと思ったら、その男がクッション代わりに下敷きになっていた。

慌てて乗っていた男の腰からどき、巻き込んでしまった事を謝った。

二回目なんだ、許してほしい。と、初心者ぶってみる。
心の中だけで。

「……」
「…あ、あの…?」

黙ったままうんともすんとも言わない男を不審に思い顔を上げる。

俺はそこで、またもや心の中だけで悲鳴を上げた。

こ、こ、こ、この人知ってる!

俺の今通う高校の近くにある工業高校の人だ。
俺の高校は進学校で、かなり偏差値も高く進学率がいい事で有名だけど、その高校は逆の意味でとても有名だった。
名前さえ漢字で書ければ入試試験は通るとさえ聞いた事がある程、色々と底辺な学校だ。
しかも素行の悪い生徒が多いというのは周知の事実で、その中でも派閥やチーム、暴走族などがあるとかないとか、校舎の壁にはピカソもびっくりなアートが所狭しと描かれているとか、何度新調しても割られるから窓ガラスはもう吹き抜け状態だとか。

…冬、寒いんだろうな。

あ、そうじゃなくて。

その中でも有名なのがこの人だ。名前は知らないが、俺も何度かこの人がうちの高校の制服を着た生徒を引きずって歩いているのを見たことがある。その時近くを歩いていた生徒が言っていた。

「っ血濡れの悪魔…!」

思わず漏れた呟き。
はっと気付いた時には時既に遅し。
悪魔はいっそ恐ろしい程の美貌を歪めて、射殺さんばかりに俺を睨み下ろしていた。

やっばい、殺される。

まだ涼子さんを成仏させてあげてない。約束したんだ。させてあげるって。
自分の存在価値を見失ってから、俺が人の為に何かをしてあげられる事は少ない事に気付いた。

強引だったけど、あの猫ちゃんの飼い主さんには感謝してるんだ。

俺でもまだ、人の為に何かが出来るのだと教えてくれたから。

その数少ない俺の生き甲斐を、こんなところで無くす訳にはいかないじゃないか。

「っおい!待て!」

悪魔が声を荒げるのを背中で受け流して、俺は走り出した。
ここがどこかはわからないけど、今は悪魔から逃げ切る事が先決だ。
今が何日か、涼子さんの後悔を食い止める日まで何日か、何時間か。それを知って、彼女を彼の元へ逝かせてあげなくてはならない。

「待てって言われて待つ奴なんて、いないし…!」

早く、早く、動け俺の足

普段使わずにいた筋肉が悲鳴を上げる。膝から下は既に棒で、ちゃんと動かせているのかもわからない。心臓がもうやめてくれと俺に言う。でもやめてやる訳にはいかない。

「はッ…はぁ、っ」
「待て、ってん、だろう、が!」

呼吸がうまく出来ない。
空気が喉に絡むのが、タンが絡むより辛いなんて事俺は知りたくなかった。
止まりたい。止まってしまいたい。
そんな弱音を、涼子さんを思い出す事で霧散させて。
つーか、どうして追い掛けてくるんだよ…っ!

「いい、加減に、しろ!」

パシリ、と腕を掴む大きな手。
それを視界に映して青ざめた俺は、思わず感覚のない足をもつれさせた。

重心が勢いを殺し切れず前へと傾く。このままアスファルトにぶつかるのだろう、とどこか冷めた思考で受け止めて、咄嗟に目をきつく閉じた。

「っ…ぶね!おい!目ぇ開けろ!」
「ふ…ぅ…っ…え?」

あまりにも近い場所から聞こえる怒声で反射的に目を開けた俺は、瞼を何度もパチパチと瞬きさせた。けれどそこは真っ白で、何も見えない。

「大丈夫か?」
「え?」

生温い風が荒く耳を掠る。
俺は上がりきった息を整えながら、顔を上に上げた。

「ひっ!あく…」
「人の事悪魔悪魔言うな!っあ、暴れんな…っ!」

そこには悪魔の美貌がドアップで、生温い風の正体は悪魔の息で、白い世界は悪魔のシャツだと理解した。
途端逃げなければ、ともがく俺を更に強く拘束した悪魔は、解りやすく舌打ちした後クソッと呟いて。

「う、ぅわあぁっ!」
「黙ってろ!」
「は、はい!」

自分の肩に米俵のように俺を担ぎ一喝した悪魔は、ゆったりとした歩調で歩き出す。
俺はと言えば、涙と悲鳴と、それから下になった頭に昇る血液に酔わないよう、必死で悪魔の制服の背中部分を握り締めていた。