俺の視線を独り占めしていた何の変哲もないアスファルトが、ふいに色濃く変色した。見上げた空は鈍色。そこからハラハラと降り出した雪が、俺の目の前を通り過ぎてまたアスファルトに濡れた跡を残した。

「寒いはずだぁ…」

空、なんて。見上げたのはいつぶりだろうか。
少なくとも高校入学時の希望に満ちた心で桜を見上げた時から、現在までの約二年弱の間には皆無だった。
あの時見上げた桜は、真っ青の綺麗過ぎる空に負けず劣らず華やかで、眩しく美しかった。新しい生活に期待が膨らんで、明るい未来に思い馳せていた。気がする。

現実はそんなに甘くないと知ったのは、そのすぐ後。
どこに居ても自分は疎まれる存在なのだと、今では半ば諦めてしまった。

「…まだ居る」

つい口をついて出た言葉に気付き慌てて手で覆った。
誰にも聞かれていないだろうかと辺りを見渡すけれど、河原の土手に腰掛けて足を抱え蹲まる女性しか見当たらない。静かに川が流れる音と、その女性の啜り泣く声だけ。
俺はここ最近毎日見かけるその人の、小さな背中を見つめた。
長い髪が背中を半分覆ってしまっているから、更にコンパクトに見える。

いつ見ても泣いている彼女。

――――この世の人では、ないけれど。

+++

いつから"見える"ようになったのかと聞かれれば、わからないと答える他なかった。
ただ、自分の見えているシースルーな方達が、俗に幽霊と呼ばれる存在なのだと理解したのは中学の時。
それを理解するのが、あまりに遅すぎた。

見えて当たり前な事が、自分以外に見えていなくて、会話をしているはずなのに、周囲には独り言を言っているように映っていた。
明らかに変人に見えただろう。俺は。

気味悪がられて、嫌遠されるようになったのは、致し方ない事だった。

だからこそ自分の事を誰も知らない学校に入ったのに。人の噂に戸は立てられないとは、まさにこの事だ。
どこから聞いたかはわからないが、俺の変な噂が広まるのは時間の問題だったらしい。
おかげさまで、現在進行形で独りぼっち。

肩にかけた鞄を一度持ち直して、俺はその女性に近付いた。
小さな背中の隣に腰掛けて、溜め息を一つ。

「…毎日、泣いてますね」
「…っ…え…?」

ぱっと顔を上げたその人が目を見張って俺を見る。驚くのも無理はないが、あまりの驚きように思わず笑みが零れた。

「わた…私の事、見えるの…?」
「見えるから話しかけれたんでしょう?」

首を傾げてみせると、その人は更に顔を歪めて涙を零した。
指先で流れるものを拭う。
確かに俺の指を濡らしたはずの涙は温度も感触もなくて、ただ拭ったという事実だけが残った。

泣き腫らした見るに耐えない目尻に、涙で髪が張り付いて酷く窶(やつ)れている。
きっと生前は華やかな美人だったのだろうその人は、折れそうな程ほっそりとした指先を震わせながら俺の手を握った。

「さわ、れるのね…っ…」

触れた場所から人間特有の暖かさの代わりに、彼女の想いが濁流のように流れ込んでくる。
悲しい、悔しい、寂しい、愛しい。

強すぎる感情に自分を見失わないよう、傾きそうな重心をぐっと堪えてその手を握り返した。

あなたは一人じゃない。
だってほら、俺はあなたに触れられる。
あなたの気持ち、わかるよ。
だから大丈夫。

そんな偽善的な言葉で上塗りして、本心をうまく隠して。狡い俺は居場所を探す。

「…助けてあげましょうか」
「え?」

弾かれたように彼女が顔を上げた。
俺はなるべく優しく、仏頂面と言われる表情を笑顔にした。

「後悔、しているんでしょう?…俺、触ったらみえるんです」

生前に彼女が強く後悔した出来事が、走馬灯のように瞼に焼き付く。
この河原に縛られ続けたまま、長すぎる時間を費やす事になるのだ。彼女は。
けれど。

「あなたが死んでしまうという未来は変えられない。それは人間の手を加えてはいけない聖域だから。けど、あなたが成仏出来る手助けなら、してあげられる」
「う…うそ…」
「こんな場所で一人で居るより、彼の傍へ、戻りたいでしょう?」

彼女の瞳が揺れる。
疑心の中に、それでも期待と希望が見え隠れした。

「俺は小宮山日向(こみやま ひなた)。あなたは?」
「わ、私…は…、涼子、です」
「涼子さん…。ねぇ涼子さん、お願い」

もう一度涼子さんの手を握りしめる。その手ごと自分の拳を額に宛てて、祈るように懇願した。
お願いします。

誰にも求められないなんて、誰の為にも生きられないなんて、俺は自覚したくないんだ。
だから、

「俺に生きてる実感、下さい」

優しくすぅ、と意識が遠退く感覚に俺は笑みを浮かべ、ゆったりと身を任せた。
目を閉じる直前に涼子さんが再び流した涙が、俺の為だという事を知る術もないまま。