「お兄ちゃん財布忘れてるよ、もう」
「あ。ありがとう」
「しっかりしてよね…」

朝に着るスーツで気分が一新するのは、礼服でも同じらしい。
普段着るものとは若干着慣れ感が足りずに違和感を感じるが、仕方ない。

今日は先輩の結婚式なのだから。

結局不参加の電話も、手紙すらも出来ずに妹に注意されるくらい情けない俺は、果たしてあの時からどれだけ成長出来たのだろうか。
幾許か落ち着いて萎れている予定の恋心は未だ、宛もなく顔を真上に向けて咲き誇ったままで。
俺だけ、時間が止まってしまったかのようだ。

気は全くと言っていい程乗らないが、体だけは着々と準備をして靴を履いている。アンバランスな自分が、存在すらあやふやに思えて虚しかった。

「…行ってくる」
「お兄ちゃん…本当に行くの…?」

くん、と引かれた服の原因は、頼りなさ気な妹の指先だった。
玄関の扉にかけていた手を戻し振り返る。
俺よりも悲しい目をした優しい妹が、そこに居た。

「行くよ。行かなきゃ」
「だって…」
「もうこの際開き直るよ。最後に当たって砕けるくらいが、俺には調度いいかもしれない」

写真立てを伏せる事も出来なかったくせに、何をのうのうと。
そう思いはすれど、妹のこの悲しい顔の前でだけはしっかりした兄を今更保ちたかった。

木っ端微塵に砕けてしまえば、カケラを探す気も起きないかもしれない。そうなるのならば、なってほしい。
所帯を持つ男に恋い焦がれるのは、今日で最後にしたい。

砕け散ったら、あの写真を伏せてしまおう。想いと共に昇華させてしまえばいい。

出来る限りの笑顔で返せば、妹は漸くちゃんと笑ってくれた。

「うん」
「じゃ、行ってきます」

当たりに行こう。砕けよう。
この先誰かを好きになれなくても、この想いだけが支配する心を、置きざりにしてしまおう。

足取りは軽く、開け放した視界に飛び込む空は結婚式日和だった。

+++

実際結婚式に呼ばれたのは初めてで、戸惑いながらも受付へと向かう。葬式には行った事があるから、何となくだが冠婚葬祭の流れは把握していた。
きっと最後まで居られないし心の底から祝う事など出来ないのが、本当に申し訳ない。

華やかなムード一色の中自分だけが場違いな気がして尻込みするが、言われるまま名前を記帳する。
すると、受付係の女性が小さく声を上げた。

「何か?」
「あ、いえ。言伝を預かっております。こちらへ来ていただいてよろしいでしょうか?」
「俺に?」
「はい」

柔らかい笑みを絶やさないその女性が促すままに、他の人達が通されるメイン会場から遠ざかる。
やがて人の居ない廊下を過ぎて、女性は一つの部屋をノックした。

「お連れしました」
「入って」

心臓が、脳天を突き破って体外へ出ていってしまいそうな程の動悸に教われた。
全身が脈打つように揺れる。
低く掠れた声、だが確かに、室内から応答した声は、先輩の。

「どうぞ」

女性が恭しく扉を開く。
陽射しが目一杯降り注ぐ部屋の中央に立っているのはやはり、かの人だった。