泣くな。
笑えよ。

無茶な願いを口に出せないまま、瞼が閉じるのが辛かった。
最後の光の顔が、泣いているなんて。

次に目覚めた時、光は俺の傍に居んのかよ、なぁ。
次俺は目覚めれんのかよ、なぁ。
なぁ、教えてくれよ神様。


【引き裂くものなど何もない。ただ君と歩む為に産まれたのだから。】


ピッピッピ、と規則正しい音を立てる心電図は、司の容態が安定している事を伝えてくれる。
ベッド横に腰掛けて司の寝顔をじっと見ている司の父、清彦は、そっと溜め息を吐いた。

「もう、一週間だよ、司。…そろそろ起きてもいいんじゃないかい?」

その声は、会社で仕事に勤しむ彼しか見ていない者からすれば驚く程覇気がなかった。
一週間。その間清彦は、暇さえあればこうして司の傍に寄り添っていた。本当は暇などない。
けれど、大事な息子よりも優先すべき事など、彼にはなかった。

司の目が覚めた時、自分が傍に居てどんな顔をするだろう。
わかっていても、実際に嫌な顔をされると自分は確実に落ち込む。
そうされて当たり前な事をしてきたし、敢えて弁解も何もしなかったのは自分の過失だ。
それでどれだけ司の安全が守られていたとしても、そもそも司と、司の母美代子を守れなかったのだから当然の報い。本当に愛する二人すら、大切にしてやれなかった。

「…また、か」

清彦のスーツのポケットの中で、会社用の携帯が振動し始めた。
間違いなく秘書からの電話だろう。病院に通う清彦を毎度連れ戻すのは、彼の部下らしからぬ怒声だ。

清彦は出たくないとごねる自分を押さえ込み、すぐに切るからと司に声をかけて電話を耳にあてた。

「はい。……わかってる。………………………あぁもう!わかっていると言っているだろう!溜まった仕事なら夜中に片付ける!それ以外の事ならお前でどうにかなるだろう!?今は息子の傍に居させてくれ!」

頼むから、と情けなく懇願しようとした時、清彦の指先に何かが触れた。思わず言葉に詰まって、呆れたように返事をする秘書の声を上の空で聞く。

ベッドに置いたままの清彦の指先を触るのは、司の指先で。

「つかさ…?」
「…る、……さい」
「っ司!」

すぐ様電源を切った携帯を放り出し、清彦は司の手を両手で握りこんだ。
うっすらと目を開けた司は、天井から清彦へと視線を移す。何かを呟くが、掠れてよく聞き取れなかった。

「待って…待ってて司っすぐ先生呼んでく…え?」

舞い上がる喜びに慌ててナースセンターへ向かおうとしたが、司は清彦の手を握って引き止めた。
それから視線を清彦と枕元に交互に向けて、何かを示す。

それがナースコールのボタンだと気付いた清彦は、わざわざ遠回りしようとした自分を恥ずかしく思いながらもボタンを押した。

「はは…恥ずかしいね、いい大人が。司、すぐに先生来るから」

僅かに目を伏せた司は、わかったと言うように笑った。

嬉しくて、嬉しくて。
きっと司が産まれた時よりも嬉しくて。
清彦はこれ以上みっともない所は見せまいと、司の手を握ってそれを額に押し付け俯いた。
涙を流す必要はない。

そんな暇があるならば、たった一人の息子の体温を感じていたかった。

+++

「もう大丈夫ですよ。命の心配はありません。入院は長くなるかもしれませんが、若いので回復も早いでしょう」
「ありがとうございます」

扉の外から聞こえる医者と父の声をぼんやりと聞きながら、司は首だけを動かして窓の外を見遣った。
高い位置にこの部屋はあるようで、随分と遠いところまで見渡す事が出来る。
意識を失うまでと何ら変わらない景色が、そこには惜しげもなく広がっていた。

きっとそれは、自分が死んでも何も変わらない。
それはわかっている。

でも、その世界に何の変化ももたらさないちっぽけな出来事一つで、ボロボロに泣いてくれる人間が居る事も知っていた。

「…司」

ぎしりと備え付けの椅子が鳴く。
ゆっくりと清彦へと首を向けて、司は一番聞きたかった事を口にした。

「光、は?」

光。光。光。
不安に揺れるその瞳は、司がどれだけ光を愛しているか詭弁に語っていた。

清彦は優しげに笑う。
それはいっそ、泣きたくなる程愛情に満ちていた。

「光君は、心臓をもらいに行ったよ」
「っ…!」
「ドナーが見つかったんだ。…司がくれた心臓だと、言っていたよ」

光。
俺も生きている。
光も、生きられる。

そんな当たり前の事が堪らなく嬉しい。

司は性懲りもなく流れる涙を拭いもせずに、天井を仰いで笑った。
ただ光、と呟いて。