それはまるで、スローモーションのような出来事だった。

音が消える。
太陽が雲に隠れた。

平凡なはずの日々が壊れゆく音だけ、頭の中に鳴り響いた。

「せん、ぱい」

見た事のない女が、先輩から後ずさる。音もなくその手から何かが滑り落ちて、きっと高い音を立ててコンクリートの地面に落ちた。
顔面蒼白の女。白いワンピースの腹部は、黒に近い赤で染め上げられて、汚い。

掠れた声は喉に貼り付いて、自分では発音出来たかどうかわからない。

「ひ…かる…」

壊れたと感じた耳は、先輩の声だけはちゃんと拾った。
視線が合う。先輩は笑った。

「人殺っ……誰か救急車を!」

通行人の悲鳴と怒声で、もやがかかった意識ははっきりと現実へ戻って来た。
混乱は、していない。
ちゃんと何が起こったか、俺は理解している。

「っせんぱい!」

自分の運動制限も騒然とする人も何もかも忘れて、力無く地面に倒れた先輩へ駆け寄った。
ダラリと投げ出した手足、血の気を失った顔。黒いシャツなのにわかる血色。

「先輩!先輩っ…!」
「……ひか、る」
「あんたが悪いのよ…あんたが全部悪いのよ!」

突然、座り込んだままの女が頭を抱えて叫んだ。

女。
先輩を刺した女。
先輩を殺そうとした女。

心臓はこんな時なのに静かに動いていた。

「あんたが死ねばあの人は私だけを見てくれるのよ!愛人風情の子供のくせに!どうして生きてるのよ!あんたが死ねば私はあの人と二人で幸せになれたのに!」
「黙れよ…」

女が叫んだ言葉で、その女が先輩のお父さんの正妻なんだとわかった。
子供が産めない女。先輩はそう言っていた。

「どうしてっ…どうしてあの人はあなたをそんなに気にかけるの!?私が妻なのに!あなたさえ産まれなければっ…あの人のあんなに寂しそうな背中、私は見なくて済んだのに…っ!」

高ぶった感情が急に冷え切っていく感覚に襲われた。遠くの方からサイレンと救急車の音。

可哀相な女。

そんなちっぽけな印象しか、感じなかった。

「光…」
「!っ先輩!」

きゅう、と手のひらに熱を感じた。ゆっくりと先輩の瞼が開く。
寄せられた眉も切れ切れの荒い息も、先輩の傷が酷い事をありありと表していた。

「、走るなっ、て、言っただ、ろ」
「ば…馬鹿じゃねぇの!何、人の心配してんだよ!」
「泣くな、て」
「泣いて、ねぇっつーの…」

そうだな、とでも言うように先輩は目を細めた。あぁもう馬鹿。そんな、いつも通りに笑うから。

涙が止まんねぇじゃん、どうしてくれんの。

ボロボロと止め処なく流れるから、先輩がはっきり見えない。
頼むよ、もう一瞬だってあんたを見逃したくないのに。

「先輩、先輩、なぁ…っ…親は、子供を愛するもんなんだって、言った通りだろ?」

また先輩が笑う。
きっと「そうだな」って言ったに違いない。
少しでも喋る事を辞めたら先輩が目を閉じてしまいそうで、下手な笑顔のまま俺は話し続けた。

「先輩、今日のデートどうしてくれんの、台無しじゃん」
「今度のデートは先輩の奢りだからな!俺、俺めっちゃ食うから、覚悟、しとけよっ」
「先輩、先輩」

俺より先に死なないで

「ひかる、泣く、な」
「俺の心、臓…やる、と言った、だろ?」

そう言って、笑いながら先輩は目を閉じた。
握っても返してくれない手を何度も握り直して、薄い唇にキスを落とす。
何度も何度も。

繰り返す内に俺から滴った涙が先輩の頬を滑って、喉の奥から嗚咽が溢れ出す。

「いらなぃっ…いらねぇよあんたの心臓なんか!そんな…そんな鉄で出来てそうな心臓、欲しくねぇよ!」

だから、だから頼むよ

「俺の惚れた生身のままで傍に居ろよっ…!」

司、