ぎゅう、と先輩が更に強く俺を抱き寄せる。

少しだけ痛くて、
ありえないくらい愛おしい。

「先輩」
「司、だ」
「…俺のピアノ、聞いて」

もう弾かないって決めたけど、けど、けど。

最後に聞いてもらえるならば。

「…聞かせろ」
「うん。…ありがとな」

ピアノに触れる。
久々に開いた。白と黒の鍵盤が、こんなにも懐かしい。
指に吸い付くような感触が好きだった。俺が一人で弾くんじゃなくて、ピアノと二人で、音を奏でているようで。

先輩は俺から離れて、ピアノの足元に座り込んだ。
目を閉じて、音を待つ。

その横顔を暫く堪能してから、俺も目を閉じた。

言葉で伝えたい事は沢山あって、でも沢山ありすぎて伝わらない。俺の乏しいボキャブラリーじゃ、あんたに何一つ伝えられないんだよ。

だから、ちょっとでいい。
贅沢なんか言わないから、ほんのちょっと。

あんたの事を考えて弾くから、一節だけでも覚えていて。

俺が死んでも、一節だけ。


一つ一つの音が連なって、愛しげに絡まり合う。楽しそうにダンスをするでもなく、涙を流して悲壮感に打ち拉がれる事もない。
ただ寄り添って、愛を口ずさむ。
そこに悲しみはない。
だって、今、俺はとても、幸せなんだ。

時間が足りない。
もっと傍に居たい。
本当はずっと、あんたと生きていたいけど。

俺はこの心臓がなかったら、こんな風にあんたに愛してもらえなかったから。
愛せなかっただろうから。

やっと、俺は俺として産まれてよかった、って思えたよ。
やっと、自分の運命を受け入れられたんだ。

よかった。嬉しい。
病気で。
役立たずな心臓が、初めて俺にくれた贈り物が、きっとあんただったんだよ。

瞬きと同時に肌を滑った涙は、俺の心の代弁者だ。
思うままに奏で続けた音達も、俺を見守ってくれていた。
悲しくないよ、ありがとう、大好きだ。

至って平坦なメロディにありったけの激情を込めた、その曲が終わる。
尾ヒレを引いて溶けゆく最後の音を、俺はきっと、生まれ変わっても覚えているんだろう。

「先輩、」
「俺もだ」
「せん…?」
「俺も、」

長い睫毛に縁取られた鋭利な瞳が、時間をかけて開かれた。
真っ直ぐに俺を見つめる視線に、迷いはない。偽りもない。
きっと、予想外な先輩の涙だって。

「俺も、お前を愛してる。ちゃんと伝わった…ありがとう、光」

柔らかく細められた瞳が切ない。そんな情けない顔、あんたには似合わないよ。
ズルリと椅子から脱力したように落ちた俺は、床を這って先輩の腕に体を預けた。

先輩の匂い。
先輩の体温。
先輩の声。
先輩の腕。
その涙も笑顔も、怒った時に寄る眉間の皺だって。

「大好きだよ先輩」
「知ってる」
「この曲あんたにやる」
「当たり前だ」

あんたを好きになって初めて、本当の意味の優しさと孤独を知ったんだ。それはとてもかけがえのないもので、あんたの次に、俺の宝物になったよ。

時間が足りないと憂う前に、耳が腐る位、あんたに愛を囁こうか。
陳腐な言葉で飾りたてて、そうだ、夢に見る程沢山、沢山。

あんた限定、愛の大安売り。

「愛してる、先輩」
「…知ってる」
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