「ここは…」
「見ての通り、隠れ家さ」
「すげ…」

海開きには早い季節、生温い湿った風と潮の匂い。
俺だけの秘密の場所。

「綺麗にしてんだなー」
「三日に一回はここに来てるからな」
「暇人」
「うるさい」

使われていない海の家だから、今でも内装はそのまま。加えて俺が少しずつ俺好みに改装していったから、ともすれば今すぐにでも店を開けそうだ。

水上を木の長椅子に座らせて、持ち込んだ電池式のミニ冷蔵庫から紅茶のペットボトルを取り出した。紙コップに注いでテーブルに置く。
一通りの動作を見ていた水上は呆れたような顔をしていた。

「何だ?」
「あんた…ここで生活するつもり?」
「それもいいな」
「蚊にさされまくっちまえ」
「それは困る」

向かいの椅子に腰掛けると、頬杖をついた水上が吹き出して笑い出した。

「…何がおかしい」
「ははっ!あんたはもっと怖い奴だと思ってたよ。でもただの馬鹿じゃん!」
「失礼な奴だなお前は」
「っははは、あはっ…!」

笑いすぎだ、馬鹿め。

けれど心地いいのは事実だから、放っておいて穏やかな海を見ていた。

水面が太陽に照らされて白く光る。
揺れるそれに今の俺を映せばきっと、酷く楽しそうな顔をしているに違いない。
きれいだ。見慣れた景色がこんなにも。

「なぁ、聞いていい?」
「なんだ」

水上も海を見ていた。
細められた瞳。
海は確かに綺麗だけれど、どうせなら、俺を見ればいいのに。

「なんでここ、連れてってくれたんだ?」
「さぁ」
「さぁって…」
「そうしたいと思ったからだ。俺にもわからん」

不思議そうな目がやっと俺を見た。そこで気付く。言わないけれど。
ただお前と、居たかったからだなんて。

「じゃあ俺からも質問だ」
「んー?」
「何故あの時頷いた」

うん、と躊躇いもなく頷いた。笑った。
だからこそ俺に不可思議な感情が芽生えたのだけれど、水上の意図がわからなかった。
水上は少しも考える素振りを見せずに、すぐさま口を開いた。

「わかんね」
「くっ…そうか」
「うん」
「お前も馬鹿だな」
「あんた程じゃねぇよ。……ただ…」

不自然な沈黙が訪れる。
漸く何か思考を巡らせた水上は、スッと俺から海へ視線を戻した。

人の言葉を待つ時間が悪くないと思えたのも、初めてだった。

「あんたと居ると楽しい。変だよなぁ、さっき初めて会ったのにさ。初めて会った気がしねぇ。だから多分、あれで終わりにしたくなかったのかもしらね。…あんたの心臓なら、もらってやってもいいって思ったんだよ」
「そっ…」

二の句が告げられない。
ここは大人ぶって軽くかわして、余裕を見せつける場面なはずだ。
でもダメだ。
卑怯だろ、こんな殺し文句。

「水上、笑うなよ」
「あ?」
「俺は、」

無防備に投げ出された、細くて長いピアニストの指に自分のゴツゴツした節くれだつ指を絡めた。
抵抗はない。水上はまた俺をじっと見ている。

あぁ、心臓がいい音を立てる。
お前にくれてやるんだから、あまり苛めてくれるな。

「俺は、俺も、同じ事を思っていた。お前と居たいと思った。さっき会ったばかりだ、なのに、…お前が、」


愛しいんだ。


「…奇遇だな」

水上は、俺もそう、思ってた。と目を瞑った。

自然に合わせた唇はカサついて、ファーストキスなんかよりも、緊張した。

+++

何かがこみ上げる。
泣きたくなる程激しい感情なんてものに蝕まれるのもやはり、産まれて初めてだった。

砂に足を取られながらもしっかりと、宛てなく歩く。

ただ繋いだ手の温もりさえあれば、どこに行こうとそれだけで生きていける気がする。

「なぁ、金城先輩」
「司だ」
「……色んなとこ行きたい、あんたと」
「いくらでも」

ぎゅう、と力が込められた。
痛みと比例する愛しさ。
少しだけ近づいた肩の距離に、心臓がまたいい音を立てた。

「どこに行きたい?」
「どこでも。でも数え切れない位がいい」
「そうか」

ザクリと砂を踏みしめて立ち止まる。
何?と見上げてくる生気に満ちた瞳を舐め回したい変態的衝動。そんな自分に思わず自嘲する。

「光」

何となく気付いていた。
光はきっと、たくさんたくさん思い出を作りたいのだろう。
何かに急かされるように、来たる日に備えて。

そんな健気な生き方が悲しい。光はまだわかっていない。

俺の心臓で、光はたくさんの幸せを感じて生きていくということを。

「お前は死なせない」
「…馬鹿じゃん」
「馬鹿でいい。忘れるな。お前は死なない。俺の心臓に生かされろ」
「無理だって」
「無理じゃない。だから亡くす事前提の思い出作りはさせない」

そう言えば昔、俺に惚れた馬鹿な男が居たっけ、ってじいさんになって思い出すような、暖かい思い出をくれてやる。

光。俺はお前が好きだ。だから死なせない。

愛してる。
お前に俺の世界をやるよ。

そう言って少し低い位置にある頭を抱き寄せた。
潮の匂い。波の音。

小さく聞こえるのは光の嗚咽。

「心臓、いい音がする」
「そうか」

どっちの、と光は言わなかった。
心が悲痛な泣き声を上げる。
未知の世界に飛び込む勇気が欲しいと。
愛せば最後。
待ち構えるのは全てを壊したくなる程の愛しさと衝動。気が狂いそうな悲しみ。

覚悟しているとは嘘でも言えない。

けれど後悔はしない。
…ただ、欲を言うならば。

「もっと早く、あんたと会いたかった」

知ってる。と意味を込めて、細い体を力の限りに抱きしめた。