ユラユラとたゆたう意識の中で、鼻腔を擽る嗅ぎ慣れた匂いに気付いた。

あぁ、そっかと納得して笑う。

目を開けないまでも、俺の目覚めを感じて笑うその人物の声が柔らかく鼓膜を刺激した。

「……壱葉先輩は?」
「要がおぶってるよ」
「はは…何で俺お姫様抱っこなん」
「俺の希望、かな」

クスクスと笑うその声が、まどろむ意識を引っ張り上げる。
逆らう事なく瞼を開けば、眩しくないようにと落ちてくる影と顔の近さに思わず笑った。

「すぐ保健室に着くからね」
「うん。…愁は?」

兄ちゃんの眉が困ったように寄せられる。ゆっくりと首を振って、言外に諦めろと。

もう多分、あの加害者の人らは地獄見てんのやろなと確信した。
状況の見方によっちゃ俺の方が加害者っぽいけど、そんなん愁には関係なくて。
仲間がやられた分はきっちり返す。その決まり事プラス、今回の場合は愁の私怨も追加されるんやろう。

自惚れんなって言われるかもしれへんけど、これはもう間違いのない事実やった。

そしてそれを止められる唯一の人間である兄ちゃんが、何もせんかったんがいい証拠。
そこに兄ちゃんの私怨も追加されたんやろう。

「…ごめんね」
「兄ちゃんが謝ってどないすんの」
「うん、…そうだね」

俺らは、別に、優しくない。
敵に情けとか出来る程大人やない。

俺やって兄ちゃん達が同じ目に合ったとしたら、ごめんと謝りながらも加害者に死ねばいいと、酷い事を言うに違いないから。


保健室に着き、目を見開く梅やんに促されてベッドに降ろされる。
いつの間にかかけてくれとったブレザーをしっかりと着て、ベッドヘッドに背を預けた。
隣のベッドには壱葉先輩が要によって優しく降ろされ、ゆっくりと仰向けになり溜め息を吐いた。

「お前ら…」

梅やんは暫く驚いたように俺と壱葉先輩を見ていたけれど、壱葉先輩に苦笑いされて薬品の乗ったワゴンを持って来た。
先に壱葉先輩したって、と言おうと思ったけどそのワゴンの薬品を梅やんとは反対側から取った兄ちゃんを見て口をつぐんだ。

「染谷、お前出来んのか」
「うちのは血の気が多いから、突っ込むだけしか芸がないんですよ。せざるをえないといいますか」
「苦労してんな」
「それ程でも?」

軽口に軽口を返して、兄ちゃんは俺の傷一つ一つを消毒して処置していく。
多分出来とう背中の痣はどないしようと思ったけど、察したんかカーテンを引いてくれて、梅やんと壱葉先輩からは見えんくなった。
まぁ、要がベッドの横で立ってるけど。

「兄ちゃん…」
「…もう、見えてたみたいだよ」
「あー、そうなんや…」

苦笑混じりに返されて、俺は諦めて制服を脱ぎ俯せに寝転んだ。

昔、父さんが俺の体に残した一番でかい傷があらわになる。
細やかな傷とは違い、割れた一升瓶の切っ先で出来た傷は思いの外深くて、約五年立った今でもざっくりと気持ち悪い跡を主張してた。

何か言われるか、と一瞬構えたけど、要は何も言わずに湿布を貼る手伝いをしてくれた。
兄ちゃんには慣れたとは言え、自分で見ても気持ち悪いあの跡を他人に見られるんはいたたまれん。

あんなん見て、嫌な気分にならん人っておらへんやろし。

やから早く終われ早く終われと心の中で何度も唱えながら、冷たい湿布の感触にひたすら耐えていた。

「……終わり」
「ゆーちゃん、起きれる?」
「ん、ありがとう。大丈夫」

差し出された手を断って、自分で起き上がる。
また渡された兄ちゃんのブレザーをありがたく着させてもらって、ベッドの上で座った。

シャッと兄ちゃんがカーテンを戻す。もう壱葉先輩の処置は終わったらしく、梅やんもベッドに腰掛けていた。

「染谷、もう風紀には」
「そろそろ全て終わって、東雲が眉間にシワ作ってる頃じゃないですか」
「そうか。二人共後で痛み止めと化膿止めと胃薬出すから、書いてある通りに飲めよ」
「はい」
「はーい」

デスクまで梅やんが戻り、保健医というより医者の管轄である処方箋らしきものを書き出す。

もしかしなくてもただの保健医じゃなかったってオチか、そりゃ山奥で医者一人おらんのはマズイわなぁと考えた所で、ギシリと俺の右側に要が座った。
兄ちゃんは俺の居るベッドと壱葉先輩の居るベッドの間に椅子を持って来て座る。

「……ゆうき」
「ん?」
「…ごめ、んな」

傷に障らんようにそっと、要の手が俺の頭に巻かれた包帯をなぞる。
僅かに指先の感触が皮膚に伝わるけど、焦れったいくらいのタッチを保つそれは少しこそばかった。

珍しく眉間にシワのない要。
俺に伸ばしたのとは反対の手が、拳を作って血管が浮くくらい力を込めているのを視界の端で捉えた。

「…何で要が謝んのん」
「…ごめん」
「もー…うん、いいで」

どうせ助けてやりたかったとか、見回りを一緒にすればよかったとか、そんな事を考えてんのやと思う。
助けが入るまで待てんかったんは俺やし、一緒に回ったら目立つ可能性もあるし、無理やとはわかってるんやろうけど。

それでも、この優しさの塊は、そんな事ばっかり気にする。

心にもない許しの言葉を吐いて、感極まったように俺を引き寄せる要の胸に素直に頭を預けた。
いやに早い心臓が頬に振動を伝えて、こんなに心配してくれたんやと不謹慎にも嬉しくなった。



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