He is ...?


平穏な日常。とりたてて特筆すべき事柄のない、そんな毎日がようやっと完全に俺のもとへやってきた。

昨夜の事を、俺の中では殆ど夢だったと片付けている。
夜には深く微睡んだ夢を見るものだ。そして太陽が眩しい時には、霞むような白昼夢を。
だから白んだ朝日の差し込む今目の前に広がる幸福だって、夢と言って差し支えないだろう。

長い長い夢を見るのだ。
これまでもーーこれからも。


「恭也、これ切ってくれる?」
「うん、任せてー」

宣言通り朝イチで帰宅した拓海は、用意した朝食をかきこんでアンの散歩へと出掛けた。
見た目の通り体力のある彼と暴れん坊のアンは、恐らく今頃住宅街を三周はしている。まるで何かのトレーニングみたいだか、彼らが楽しそうなのはいい事だ。

そして俺は、拓海の為の半休でクッキーを焼くと張り切る父のお手伝いをしていた。
寝かせておいた生地を渡され、以前教えてもらったように等間隔で包丁を入れていく。
この時点では継ぎ目も綺麗なアイスボックスクッキーなのに、ここからアキさんが焼くと何故か全面ココアクッキーのようになる。いつだったか、生徒会室でご馳走になったあれと同じ末路だ。そして見た目に反し美味なのも、同じ。

「ふふーっ」
「?どうしたの、楽しそうだねぇ」
「うん。結構前なんだけどー…拓海がね、生徒会室でパパのクッキーをご馳走してくれた事があるんだよ。似合わないタッパー持って、美味しいから食べてーって」
「そうだったの。なんか照れるなぁ」

父は恥ずかしそうに笑いながら、荒く砕いたアーモンドをクッキーの片側に押し付けていく。きっとこれも焦げるんだろうが、どんな風に美味しく仕上がるのか楽しみで仕方ない。

「拓海はパパが大好きだよねー」
「そうだったらいいな。そうじゃなかったら、死にたくなっちゃうかも」

軽く言っているが、父のそれは本気で出来ている。
夢で見た部屋の光景がそう俺に確信を持たせた。

「拓海とは…どこで出会ったの?」
「ん?そういえば恭也に話していなかったね」
「うん。聞きたいなー。聞いてもいーい?」

勿論、と嬉しそうにクシャリと破顔した父は、無邪気な子供みたいだ。見た目の若さも相まって、まるで同級生か先輩と話しているような気分になる。
しかしこの人が老けていく想像が出来ないから、この違和感はずっと続くのかもしれない。
この家族が家族としてあれる内は。

「拓海君のお母さんはね、俺と同じ病院で働く看護師だったんだ。でもほら、うちは総合病院だからお休みがないでしょ?だからね、拓海君はよく遊びに来てた」
「そうなんだー。職場恋愛だったの?」
「そういう形にはなるかな?拓海君は小さな頃から天使みたいで…今はね、少し小悪魔みたいだけど」

クッキーを切り終わって使った包丁を洗う俺は、その鈍色に笑顔の自分を見た。
作り物みたいな顔だ。見たくなくて、そっと包丁を水切りカゴへ伏せる。

「それから好きで好きで堪らなくて…年々逞しくてヤンチャになってくけど、中身はあの頃のままだなぁ。純粋で、優しくて、少し不器用だ。人の痛みがわかる子だって、密かな俺の自慢なんだよ」
「べた褒めだねー。わかるけど」
「でしょ。ほんと、あの年増女から産まれたなんて未だに信じられないよ」

朗らかに続いた台詞は、到底優しげな表情には似合わない。だからこれも、夢なんだろう。手持ち無沙汰に父の手元を見下ろして、俺は降ってくる違和感から目を逸らした。

「奥さん、どこいっちゃったの?」

言いたくなければそれでいい。
そんな軽さで問いかけると、父は小さく笑った。

「地獄だよ」

やはり視覚と聴覚から入ってくる情報が一致しない。
そんな笑顔で言う事ではないと思ったが、それでも俺は作り物みたいな笑みを崩さなかった。

「地獄かぁ。どんなところかなー」
「さぁねぇ。わかんないな。いつか行けるだろうから、行ったら恭也にも教えてあげる」
「俺が先に冒険しちゃうかもーだよ?」
「いい子の恭也なら、大丈夫だよ」

日の降り注ぐキッチンに、二人分の笑い声が響く。
暗にいい子にしていろとちらつかされた牽制を受け止めて、俺はそうだね、とだけ口にした。

「パパは拓海が大好きだね。ふふー、うらやましー」

今一番適切であろう言葉と態度を探す俺は、彼にどう見えただろう。

必死に映っただろうか。
それとも、惨めに媚びる姑息な子供に見えただろうか。

けれど、なんでもいい。
ここから放り出されない為には、そうするしかないと知っていたから。

「あれぇ、恭也やきもち?」
「そーかも。たまには俺も構ってねぇパパー?」

コツンと額に寄せられたこめかみ。くすぐったくて笑うと、父は幸せそうに肩を揺らした。

「何言ってるの。恭也はうちの一番の息子だよ。で、アンは大事なペットね」

キン、と耳鳴りがした。

玄関から騒がしい一人と一匹の声が聞こえ、触れていた頭が離れていく。
満面の笑みで手を洗った父は、愛しい年下の男を迎える為にリビングの扉へ駆けていく。

その背を呆然と見送る俺は、きっと、あの頃と同じ顔をしているはずだ。
あまりに胸が痛かった。理解した上でここにしがみついたのは、俺なのに。

(何も知らなかった時に、戻れたのなら)

何が間違っていたのだろう。
手繰り寄せた記憶の中で、間違えた場所を一つずつ辿っていく。

そして最終的に、俺は一人、自嘲するしかなかった。

「恭也、二人共帰ってきたよ」
「ただいま。お、何、うまそうな匂いがする」

父と弟が顔を出す。タシタシと走ってきた愛犬を抱き上げて、俺はお帰りと微笑んだ。


大きく立派なこの家に住むのは、一人の若い、自立して金銭的に余裕のある男性だ。
彼は家族が欲しかった。

だから揃えたのだ。

ただ一人恋焦がれる宝物と、息子、広い庭に相応しいペット。
ーーここは、終わらないおままごとの舞台だから。

「ほんと幸せだなぁ。理想の家族って感じがするよね」

手を洗いに洗面所へ行ってしまった拓海を名残惜しそうに見ていた父は、くふくふと幸福の表情で俺を振り返った。

間違えたのだ。しかし、舞台に上がったからには、途中で降板なんて出来やしない。
俺は演じ続けるだろう。この家族に相応しい息子を。

だから、これで最後にしよう。どうせ俺は、遡れば生まれ落ちた事が間違いだったのだから。

「そうだねー。すっごーく幸せ」
「恭也もそう思ってくれる?」
「もっちろん!」

俺は最後の本心を吐く。
知りうる限りの毒を込めて、物語を描き操る人に、気付かれぬように。

「だって、完璧な家族だもん」

ーーとんだ張りぼての、見せかけの笑顔を繋ぎ合わせて。



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