現在 1


それは季節がすっかり秋めいて、隙間風に木枯らしの匂いが混ざる夜だった。

いつものように客を取り、散々好き勝手され、不快感で僅かな食事も吐き戻した。
夜半に姉様がやってきて私を抱き、そのまま床について幸せを噛み締めている、そんな変哲もない時間だった。

代わり映えのない日常に安堵し、感謝する。
一日でも長くこの日々が続くようにと、姉様の息遣いを聞きながら豊かな胸に寄り添っていた。

「なあ。ひとつ、尋ねてもよいか」
「はい、なんなりと」

甘やかな香りに酔う私は、夢心地に頷いた。
細くて頼りないばかりの、象牙色の髪を愛しげに撫でてくれるのはこの世で姉様だけだ。

上等な絹糸のような姉様の黒髪を指先で捏ね、顔を上げた私に、彼女は唐突に問いかけた。

「お前の名を教えてはくれないか」

人差し指と中指の間からすり抜けた黒の一房が、二人の間へポツリと落ちた。
姉様に訊かれたのだ。早く答えねばならない。そう思うのに、私には差し上げられる答えがどこを探してもなかった。

「私に……名前は、ないのです。親の顔も知りませぬゆえ」
「では、ここへ来るまでなんと呼ばれていた」
「……さあ。なんと、呼ばれていたのでしょう。記憶にありませぬ」

私の居ない場所で私を買った人達が、私をなんと呼んでいたのか想像はつく。
大方、化物や忌み子等の、おおよそ人扱いとは言えぬ言葉で形容されていた。

けれど私の耳に届いていたのは「おい」や「そこの」ばかりで、私を特定する呼称はついぞなかった。少なくともあの時代に生きる私は、人ではなく穀潰しの駒使いであって物に近い存在だったからだ。

姉様に小汚ない過去を知られたくなくて苦しい言い訳をしたが、それ以上の問詰はなかった。
その代わりか、姉様は私の前髪へ唇を寄せ触れる。

「では、私が名前をつけてもよいか」
「椿の子、と呼ばれておりますよ」
「それはお前の本当の名ではないだろう? もしや、不満か。私がお前の名を決めることが」

何を言い出すのだ。そんなことあるはずもないのに。

心外に思い衝動的に身体を起こした私は、姉様の肩に手をかけて唇を噛んだ。
白の夜着が少々はだけ、鎖骨の窪みに影が浮かぶ。なめらかな首筋を手繰った上には、ほくそ笑む姉様の赤い唇があった。

「皆と同じように、お前を椿の子と呼ぶのは忍びない。私はお前の唯一で、類を見ない存在でありたい」
「……私も、そうです。寸分違わず姉様の所有物で居たいのです」

静かな部屋には、押さえきれぬ興奮で荒いだ私の呼気が響いていた。
私というあやふやな存在を明確にする名前を、この美しい人がくれるのだ。気狂いに成り果てそうなほど、期待が募って息苦しかった。

姉様は迷いなく私の頬に触れ、まるで、あらかじめ決めていたかのように口ずさんだ。

「サチ。お前の名前はサチにしよう」
「サチ、ですか」
「ああそうだ。幸という字を使う。これは幸せという意味がある。私のサチ。私の幸せ」

脱力した手のひらに書かれた字がどんなものか、学のない私には理解しきれなかった。
だがそれでも、私を姉様の幸せだと言ってくれたこの夜を、私はいつまでも忘れないだろう。

「姉様、たくさん呼んでくださいまし。サチは、姉様の為に生きていきます」

痛くもなく、寒くもなく、空腹でもない時に流れる涙を、嬉し涙と呼ぶのだと私は知った。
姉様の着物を濡らす私を、彼女はたおやかに笑って抱き寄せ、折り重なるようにして夜を過ごした。

「可愛い子。お前だけに、私の名を教えよう。時々で構わないからサエと呼んで、口付けてくれ」

口を開けばみっともない泣き声を上げてしまいそうで、私は短く小さな声で名を呼び、姉様に口付けた。
嬉しそうに破顔する姉様はどこか無邪気に見え、ついには私も、楽しくなって笑っていた。

「サチ。私のサチ。私だけのサチ」
「はい。サチは姉様のものです」

姉様に出会ってこの世に存在できた私は、この夜、初めて人となった。


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