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 大きな音に驚いて反射的に肩を竦めた間宮は、男の無機質な表情を見て息をのむ。

「何故行った。何を話した。何があった。洗いざらい話せ。僕は君の代理人だ。全てを聞く権利と義務がある。……このまま、簡単に逃がしてもらえると思うな」

 半歩後退した佐古は、顎を引いて腕を組んだ。視線の強さは、逃げ出したがる間宮を容易く拘束する。
 扉へ磔にされたかのように動けないまま、間宮は詰めていた息を細く吐き出した。

「田沼さんが、誰か……思い出して、確かめたくて行った」
「そうか、それで」
「すごく怒ってた。母さんに裏切られたことも、死んじゃったことも……俺のことも憎いって……苦しんでた」
「では、君が僕の元から去りたがる理由は?」

 淡々と促される間宮は瞬きの度、瞼の裏に佐古の笑顔を描く。優しい記憶に縋っていないと、何一つ満足に伝えられない気がした。

「このままでいたかったよ。春馬さんとずっと一緒にいられたらいいなって。でも間違いだって、田沼さんが教えてくれた」
「どういう意味だ」
「俺じゃ駄目なんだよ」

 期待を抱く日々は輝くような高揚感を教えてくれたけれど、間宮にはその煌めきが耐えられない。望む未来は眩しければ眩しいほど、後ろに伸びた仄暗い影を色濃くする。
 前を向いてひたむきに歩き続けることができない間宮には、追いかけてくる影が恐怖でしかない。それを、田沼に思い知らされた。

「一緒にいたら後悔させる。いつか結婚とか子どもっていう問題が出てきたとき、春馬さんが苦しむのは嫌だよ。けど幸せにできる気もしない。そのくせ、別れようって言われるのも嫌だ」
「智樹」
「怖いんだよ、もう……だったら最初から、何もない方がいい」

 心の奥の鬱蒼とした場所に閉じこめた、諦めの悪い声が「一人は怖い」と叫ぶ。それも愛憎に染まる田沼の笑みと、妻を待ちくたびれた義父の背中を思い出すだけで閉口した。

「だから……ここに、いたくない」
「それが君の本音か」
「そ、うだよ。呆れただろ。あれだけ大事にしてもらっても、俺はこんなだよ。春馬さんには釣り合わないし、何も返せない」

 声を震わせて言い切った間宮を、男は無感動に見つめている。再三引き留めて根気よく向き合ってくれた佐古でも、もはやこれほどの腰抜けには付き合っていられないだろう。

 間宮は確信の元、彼の口から飛び出る「わかった」を待つ。けれど鼓膜を震わせたのは、暗闇に火を灯すような声だった。

「まだ言えないか。一言、一生愛してくれと呟くだけで構わないのに」

 それはこの場に似合わず柔らかくて、誘われるように顔を上げてしまう。
 すると組んでいた腕を解いた男が、今度は包むように間宮の頭を胸に抱いた。

「僕は、君の優柔不断なところが嫌いだ」

 優しく抱き締めておいて差し向けられた非難が、笑えるほど真っ直ぐ胸を射った。聞きたくない事実は一瞬にして間宮を厭世観の中へ突き落とし、本能的に逃げ出そうと男の身体を押す。しかし佐古はビクともせず、それどころかより強く腕に力をこめた。

「嫌なことがあっても笑顔で誤魔化すところが嫌いだ。自分を卑下するところが嫌いだ」
「なんだよ、わざわざ……っ」
「自分に好意を持つ人の気持ちを考えていないところが嫌いだ。一人で大丈夫だと思い上がっているところが嫌いだ。本音を言わない、薄情で軟弱なところが嫌いだ」
「やめてって、頼むから! ……っ嫌いでいいから、離して……」

 懇願し、佐古のコートを強く握り締める。それでも男は間宮を離さない。

「けれど君の、自分から甘えるのが滅法下手なところが、好きだ」
「……え?」

 唐突な告白が、間宮の息苦しさを払拭した。

「僕に野菜と魚を食べさせようと試行錯誤してくれるところが好きだ。キスの後に照れる表情が好きだ。僕が部屋で仕事をしていると、静かに過ごす健気さが好きだ。話しかけると嬉しがる素直さが好きだ。眠くなると少し舌足らずになるのも、好きだ」

 間宮は男の声を黙って聞いていた。傷つけたいのか甘やかしたいのか、判断できない。
 しかし次に放たれた言葉が、佐古の真意を悟らせた。

「君の嫌いなところくらいあるが、好きなところは日毎に増えた。この先も僕は、君の好きなところを見つけ続ける。僕はそれが幸せでならない。だから僕は一度も幸せにしてくれと頼んだ覚えはないし、君を大切にすることへの見返りを求めたこともない」

 彼は間宮の自惚れを、痛烈に批判していた。
 途轍もない恥ずかしさに襲われるが、男はそのよく動く口を閉じる気配がない。

「田沼が人の幸せを僻む感情も多少は理解できる。だが君が一人で生きていく姿を見たとして、気が晴れるとは到底思えない」
「それ、は……でも」
「後もう一つ。君のくだらない自己犠牲は好きになれそうにない。せめて誰かが幸せになるならまだしも……君のそれは、誰も救われないじゃないか」

 明らかにされる彼の本音には遠慮の欠片もなく、耳に痛いほど正論だ。しかし一切の悪意が感じられない主張は、疑いようもなく間宮を慈しんでいた。

「この際はっきり言うが僕は怒っている。いい歳をした男の駄々を真に受ける君は馬鹿だ。何故君を憎む必要があるんだ? ただの八つ当たりじゃないか。痴情の縺れに子どもを巻きこむなど言語道断だ。知ったことか、そんなもの」

 つらつらと不貞腐れた声が耳元を温め、間宮は思わず笑ってしまった。目線を上げると、予想通り口を尖らせた男がいる。

 堪らなく、好きだ、と思った。


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