その日の昼過ぎ、会社の喫煙ルームで食後の一服をする千寿は、青年が急遽タッパーに詰めて作った弁当を思い返していた。厚焼き玉子なんかは母親が焼いたものより千寿好みで、白米の進む塩加減を反芻すると涎が溢れそうになる。
 生まれてこのかた料理という作業に嫌われ続けている千寿は、久方ぶりの手作り弁当に感動していた。昼食を食べたばかりだというのに、用意してくれるらしい夕飯への期待が高まるのも仕方がない。

「しっかしなあ……ええんか、これ」

 独り言の合間に紫煙の輪を吐き出して遊んでいると、同期入社で営業部の友人、酒井が狭い喫煙室に入ってきた。

「よう、我が社のエースプログラマー。今日のパンツ何色?」
「はー……。ふんどしじゃ、ボケ」
「その面倒臭そうな顔、お前に憧れてる女子社員に写メしていい?」
「ええけど、夜道歩くときは背後に気いつけや」
「めっちゃ怖えなそれ」

 男は快活な笑い声を立ててから、千寿の隣で煙草に火を点ける。
 掴みどころのないふざけた男だが不思議なほどに馬が合い、入社後の研修以来の付き合いだ。観察眼が優れており、千寿の性対象を言い当ててなお、全く態度を変えないところも気が置けない理由だろう。

「そういや酒井、前言うとった……総務から押しつけられた後輩の教育、どない?」
「面白いよ。宇宙から日本に来て日が浅いんだって思うようにしたら腹も立たないし」
「苦労しとんな……」
「千寿こそ、またソーシャルのヘルプで午前様続きだったって? 開発部のメシアって言われてるらしいじゃん」
「断る理由ないし、俺、仕事早くて正確やから問題ないやろ」
「言い回しだけは可愛げがないな」

 酒井は舌をベッと出してお人好しをからかい、お猪口を摘まんで呷る仕草をする。

「そんで本題。今日久々に飲みに行かない?」
「奢りならええで」
「俺のほうが薄給なんで無理ですう」
「白々しいですう。……あ」

 千寿はおどけていたが、イレギュラーな青年の存在を思い出した。居候許可はしたものの、名前も知らない他人を自宅に置いて飲みに行くのは如何なものか。それに、夕飯も食べると言ってしまっている。
 仕方なく刺身と日本酒の妄想を掻き消し、酒井に向かってムッツリと口を尖らせた。

「やっぱまた今度でええ? 早よ帰らなアカンねん」
「いいけど何、それってキス顔?」
「夢に出るくらい濃いのんかますぞ」
「あ、勘弁してください。つーか、家で誰か待ってる?」
「……まあ」
「あら、慶ちゃんてば破廉恥! ……また面倒に巻きこまれてるわけじゃないよな?」

 心配そうな酒井の顔に、つい苦笑する。

「またってなんや。人をトラブルメーカーみたいに」
「トラブルどころかダメンズメーカーじゃん? 一昨年、彼氏メンヘラ化させて監禁されそうになったのは誰? 助けたのは誰? 他のトラブルも時系列順に言っとく?」

 しなを作り、パチパチとわざとらしい瞬きで迫ってくる酒井へ、千寿は反論できない。
 知人友人、更には親兄弟にまで「お人好しで世話焼き」だと形容される千寿は、加えて「恋人には異常に甘い」という、ある意味悪い癖を持っている。
 そのせいか、初めは千寿好みの頑張り屋で健気な恋人がどんどん我儘になり、傲慢になり……監禁未遂はさすがに一度だけだが、ヒモ化やストーカー化は慣れるほどで、その度に大変な思いをして別れてきた。
 色恋沙汰から積極的に遠ざかっていた理由は仕事の忙しさだけでなく、己の恋愛下手を自覚したからでもある。

「まあ……事情があんねやて」
「そっかそっか、で?」
「……あーもう、お前そのワクワクした顔やめえや……」
「だって気になる。話すまで許さなーい」
「いやーんキモーい……近いっちゅうねん」

 好奇心に満ちた酒井の顔を押し退け、灰皿へ煙草を放る。その手で二本目に火を点け、千寿は渋々、昨日からの出来事を話した。

「――……せやからな、迷える美青年が家で飯作って、俺の帰りを待っとるわけよ」

 途中からうんともすんとも言わなくなった酒井は、話し終えると途端に憐みの目を千寿へ向けた。

「そっか、忙しくて疲れてんだよな? 可哀想に、そんな妄想までするようになっちゃって……」
「しばくぞ」
「ごめんて。つーか初対面の他人だろ? 追い出せばいいじゃん」
「いや……頼まれた以上、追い出す気はないんやけど」
「金目のモンとか平気?」
「その辺の心配はしてへん。そういうあくどいタイプには見えへんし……せやけど、正直扱いに悩んどんねんよなあ」

 困り果てる千寿を眺めていた酒井は、わざとらしく手の平に拳をポンと打ちつける。

「じゃあいっそ、食って付き合っちゃえば?」
「なんでやねんお前アホか」
「ちなみにお前の好み的に見た目は?」
「ドストライク」
「よし決定!」

 呑気な同僚の額をジッポライターの角で打つ。大袈裟に痛がるフリは無視だ。

「そういうのはもうええねん。疲れた」
「お前が甘やかしすぎなんだろ。普通じゃ駄目なわけ?」
「お前やって、可愛いなあ思たらデロデロに甘やかすやろ」
「え、全然? 飴チラつかせて鞭打つのが楽しいんじゃーん。甘やかしたげるのは、泣いてから」
 爽やかな笑顔と台詞の似合わなさに、千寿はさりげなく酒井から距離を取る。
「ドクズめ……まあ、暫く様子見てみるわ。悪い奴やなさそうやし」

 酒井が小声で「俺にも優しくしてー」と訴えるのを聞き流し、まずは今夜、夕飯でも食べながら彼の名前を訊こうと決める。
 しかしその夜――千寿が会社を出たのは、日付が変わる寸前だった。


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